2月19日 受難節第1主日 「御言葉はあなたの近くにある」

ローマの信徒への手紙10章8節~13節

2月22日(水)は「灰の水曜日」と呼ばれます、「レント(四旬節)」のはじまりの日です。40日間(実際には6週間)、伝統的には「祈り」、「断食」、「慈善」によって悔い改めをあらわす時として過ごされてきました。プロテスタント教会では「受難節」と呼ぶのが一般的です。イエスさまが、わたくしたちの罪の購いのために、十字架への苦難の道のりを歩まれたことを覚えて過ごす期間です。

 

「受難節」と言いますと、個々人が自らの信仰について悔い改める期間という印象を持つことがあります。けれども、イエスさまの十字架は、「ただ一人を救う」ためのものではありませんでした。「万人の救い」のためになされた神さまの御業でした。そこには、救われた者たちの共同体が意識されています。救われた者たちが集まって、主イエスを救い主として、その御言葉に耳を傾けるのです。ですから、個人的な悔い改めも大切でしょうけれども、教会的な共同体的な悔い改めを覚えることも大切であろうと思うのです。

 

罪は誰も一人では背負えません。ですから、主にある家族の交わりにおいて一緒に罪を覚え、赦しを請い、分かち合い、受け取ることが大切であろうと思うのです。そのために、わたくしたちは、同じ御言葉を聞くのです。同じ御言葉を聞いて、わたしも、あなたも、あの人も、この人も、同じ救いにあずかっているのだということ受け取るのです。

 

今朝の御言葉には、3つの大切な言葉が記されております。1.「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」、2.「主を信じる者は、だれも失望することがない。」、3.「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」。

 

考えさせられるのは「主」と「わたし(たち)」の近さです。呼びかけることが出来る近さ。希望を持って、期待出来る近さ。何よりも、御声を聞き、語ることが出来る近さです。けれども、「罪」や「悔い改め」と言いますと、「主」と「わたしたち」には近さよりもむしろ遠さがあるようにしか思えなくなってしまうことがあります。主の御心にあまりにふさわしくない自分ばかりが見えてくる。一人で悔い改める時にはそうなるかもしれません。そうではなくて、主は万人の救いのために、わたしだけではなく、あなたのためにも、あの人のためにも十字架におかかりになられたのだということを知ることが出来たならば、分かち合うことが出来る、一緒に担いあうことが出来る。そこで、救いの確かさを受け取ることが出来るのです。主に近づくことが出来る。いや、主がそういうわたくしたちの方へ近づいてきて下さっておられることを知ることが出来るのです。

 

この近さは、わたくしたちの方から10歩、主の方から10歩ずつ歩み寄って縮められるようなものではありません。ひたすら主の方から近寄って来てくださる近さです。わたくしたちが呼べばすぐに来られる。信じればすぐに応えてくださる。何よりも、わたくしたちの口から御言葉をお語りになられ、ここの内に御言葉を置いてくださる程の近さがあるのです。

主ご自身が、わたくしたちの内側に宿っておられるほどの近さがある。救いの確かさというのは、そういう意味で、「主」と「わたし」がまるで一つになったかのように、わたくしたちの口や心の内に、主の御言葉が注がれ、置かれるところで確かなものとなるのです。主がそうして、わたくしたちの内に御言葉を置いてくださるために、近づいてきてくださるのです。

 

主イエス・キリストの十字架を覚えて過ごす受難節にあって、自らの信仰を省みる時、ただ自分の罪を悔い改めるだけではなくて、主がわたくしたちの教会の内におられて、わたくしたちの教会を通して御言葉をお語りくださり、わたしたちの教会の心の内に御言葉を置いてくださっておられる。わたくしたちは救いを宣言する主の御言葉の内にいつも置いて置かれていることを確かに受け取りたいと思うのです。そうして、わたくしたちが受け取った救いの御言葉を世に証ししていくものとなりたいと願うのです。

 

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