12月24日 クリスマス燭火礼拝       「なんと幸いでしょう!」

ルカによる福音書1章26節~45節

クリスマスの夜。きっと誰もが「幸せ」を願って過ごしているのではないでしょうか。

神さまも同じように「幸せ」を願って、この夜、大切な御子を救い主として世にお遣わしになられました。

 

「幸せ」は人によって感じ方が違うところがあります。ある人は幸せと感じることが、ある人にとってはそうではないということが起こり得ます。

本当の幸せというのは、きっと自分だけの中にあるのではなくて、たとえ自分が不幸せであったとしても、自分を通して誰かが幸せと感じてくれるものの中にあるのではないだろうか。少なくとも、幸せというのは孤独なものではないはずですから、より多くの人と分かち合えるものの中にあるように思うのです。

さらに、もし幸せになるためには何か条件が必要であるとするならば、それもきっと本当の幸せとは言い難いのではないかと思うのです。あれをしなければならないとか、これがなければならないというような幸せは、すぐに手に入れることが出来たとしても、失われるのも早いのではないでしょうか。

神さまは、わたくしたちに何の条件もなしに、ただ、その愛と憐れみによって、本当の幸せを味わい知ることが出来るようにしてくださいました。弱いままで、破れたままで、欠けたままでいい、完璧になんかならなくっていい。しかも、誰とでも一緒に分かち合うことが出来る。そういう幸せを届けてくださったのです。それが、御子イエス・キリストの誕生の出来事なのです。

 

天使がマリアのところにやって来て告げました。「あなたは男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」

マリアには何のことかわからず言いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。」

天使は言いました。「神にできないことは何一つない。」

マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」

 

マリアは、そう言いつつも、本当に喜んでいただろうか。幸せだと思えていただろうか。ことによっては律法に触れる事柄でした。それでも、マリアは、エリサベトのところへ出かけました。相談に乗ってもらうためではありません。エリサベトを祝福するためです。彼女は長年子どもが欲しいと願っていました。マリアは、自分の問題は脇に置いて、とにかくエリサベトが喜んでいる喜びを一緒に分かち合おうと思ったのす。

「あぁ、わたしは不幸だ…あの人は幸せでいいなぁ…」というのではなくて「わたしは不幸かもしれない…でも、あの人の幸せを祝福しに行こう!」

そうして、エリサベトのところにマリアが来た時、エリサベトは聖霊に満たされて言いました。「あなたは祝福された方です。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださいました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

自分が幸せかどうかはわからなくても、他の人が見たら幸せに見える。それが、ただイイことがあるとかないとかではなくて、そこに神さまの御業が働いておられるから幸せなのだと言える。そういう幸せを分かち合うことが出来る者がいるということは大切なことなのです。

イエスさまがお生まれになる前に、この二人の女性は、本当の喜びを味わったと言えます。自分のことは脇に置いて、主が、お互いの上に恵みを注いでくださっておられることを分かち合い、喜び合い、祝福しあったからです。

「なんと幸いでしょう!」

わたしたちはなんと幸いでしょう!

主が、共にいてくださり、御業をなしてくださり、祝福してくださるからです。

わたしたちはなんと幸いでしょう!

こうして、主の御心を共に味わい、分かち合う家族がいるからです。

わたしたちはなんと幸いでしょう!

 

 

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