1月1日 元旦礼拝 「言の内に神をみる」

 

ヨハネによる福音書1章14節~18節

新年明けましておめでとうございます。

この挨拶は「新しい年のはじまりを無事に迎えられましたことを心からお祝い申し上げます。」という意味だそうです。お正月といいますのは、そうして、お互いに祝福しあって過ごす時だと言えます。また、今日は降誕節第1主日でもあります。救い主イエス・キリストの誕生をお祝いする最初の主の日です。救い主と共に歩み出す最初の一歩でもありますから、新しい年の恵みを思い、希望を描きながら最初にその一歩を主と共に、皆さんと踏み出せますことをとっても嬉しく思っております。

 

この朝ふさわしい御言葉が与えられたと思いました。「わたしたちはその(神の独り子の)栄光を見た」、その栄光(すなわち主ご自身は)「恵みと真理とに満ちていた」、「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた。」

 

クリスマスに、エリサベトとマリアの物語を通して、主がその御心に留めてくださる者の祝福をみてまいりました。主が御心に留めていてくださる。これ自体が大いなる祝福なのです。「だったら、何か良いことでもしてくれ!」と思うかもしれませんけれども、主ご自身が恵みと真理とに満ちておられ、愛と恵みの主でありますから、すべてが善い賜物として備えられているのです。しかし、わたくしたちは、時にそれが見えないことがあるのです。だから、あれやこれやと願うことがあるのです。

 

「見る」というのは不思議なもので、「目」で「見る」と言いますと、面白いものに「錯視」というのがあります。平行に描かれた2本の線が八の字に見えたり、同じ大きさの〇が大小に見えたりします。目は、見えているものを見えているままに見ないで、しかし、見えないものを見ることが出来るともいえます。「聴く」ことによって「見る」ということも起こりますし、「触れる」ことによって「見る」ということも起こるのです。人の感覚は「見る」ということに集中していると言えるかもしれません。

 

わたくしたちは、信仰によって聖書を読み、御言葉を聞くことによって、神さまを「見る」のです。

 

ヨハネ福音書は「言は神であった」と語り「言は肉となった」と語ります。それは、「神の受肉」として「人となられた神の御子イエス・キリスト」ということですけれども、同時に、わたくしたち自身もまた、神さまの御業をみることが出来るようになったということに他なりません。しかも、2000年前にそれが出来たというだけではなくて、今なお生きて働いておられる神さまの御業を見ることが出来るということなのです。もっと言いますと、御言葉を聞くと言うことは、御言葉が神さまの出来事となって、わたくしたちの内に起ることを意味しているのです。

 

肉となられた言なる方。神ご自身である方は、「わたしたちの間に宿られた」のです。「間」というのは隔たりのある空間のことではなくて、言い換えるならば、わたくしたちの「肉」と「魂」との分裂の間、「罪」と「命」の断絶の間、表裏一体のようになっているけれども、背中あわせになっていて互いに見えないようなそういうものの間でそれらをつなぎ合わせてくださったということです。そうして、主の御言葉が、魂の救いが肉の救いとなり、罪の赦しが永遠の命となったことを知らせ、まさにそれがわたくしたちの内に出来ごととなって起こっていることを見せてくださるのです。

 

新しい年、イエスさまが、そうして、わたくしたちを神さまの御心につなぎとめてくださいます。

ご一緒に御言葉を聞いて、神さまの御業、救いの実現を見てまいりましょう。

 

コメントは受け付けていません。

2018年8月
« 8月    
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

写真 / 動画のページ (2)
礼拝案内 / 説教集 (77)

WP Cumulus Flash tag cloud by Roy Tanck requires Flash Player 9 or better.