ルカによる福音書24章36節~43節

「わたしは何者なのだろうか」と問うことが、「イエスさまってどのようなお方なのだろうか」と問うことと同じであると考えたことがあるでしょうか。キリスト者であれば、わたしは、イエスさまに救われて、イエスさまの復活の命に生きる者とされたのだから、わたしとイエスさまは切り離すことの出来ない関係にあるということはおわかりになられるでしょう。イエスさまは「救い主」であり、わたしは「救われた者」という関係理解は間違いではありません。イエスさまは救い主で、わたしは救われた者、救われたわたしは何者か…お救いくださった方は何者か…まだちょっと距離があります。実はもっと密接なのです。どれほど親密かというと、イエスさまはわたしたちをご自分のものとされたほどにです!「わたしたちは主のものとされた」のです!ですから、わたくしたちが「わたし」について問う時、その主であるイエスさまを問うことになると言えるのです。

 

誰でも、自分が何者かを考える時、生い立ちや性格などを考えます。推理小説や映画で、刑事や探偵が、犯人を捜し出す際に、証拠や言動から犯人像をプロファイリングするようにして、わたしたちもまた自分をプロファイリングします。キリストのものとされた者は、自分を捜し出す時に、ただ自分のことを見るのではなくて、ご自分のものとしてくださったキリストを見るのです。悩みや苦しみにぶつかる時、人生が問われる時、あなたは一体何者なのかが問われる時、キリスト者は、救われるわたしではなく、お救いくださってご自分のものとしてくださったキリストを問うのです。そうして弱さや苦しみの中でキリストが知られるようになる。

 

 

今朝の御言葉は、復活された主イエスさまが弟子たちの集まっているところにお出で下さった物語です。この物語を読みますと、わたしたちがキリストのものとされたことがよく分かります。わたしが何者なのかがよく分かるのです。

復活されたイエスさまは、弟子たちが集まっているところに来られました。復活されたイエスさまが最初に弟子たちに言われたのは「あなたがたに平和があるように」という平和の挨拶です。イエスさまが「平和があるように」と言われたのだから、わたしたちには平和があるのです!ですからわたくしたちは告白します「わたし(たち)は主の平和です!」と。この平和こそ「わたし」ですと!もはや死も滅びも世の何ものも「わたし」と「イエスさま」の深い愛の絆を妨げることは出来ないからです。イエスさまは弟子たちに言いました。「あなた方はこれらのことの証人となる」と。

 

「平和」であるとは「争いがないこと」と言うことが出来るでしょう。そもそも争いが起こるようなことがないことこそ本当の平和というものではないでしょうか。なぜ争いが起こるのでしょうか。事の優劣があったり、物事が相対化されたりするからではないでしょうか。比べられて、あっちがいい、こっちがいい、より良いものを求めている時でさえ争いが起こるのです。平和であろうとしている時でさえ争いが起こるのです。ですから、争いがないことが平和だということは間違いないでしょうけれども、争いは絶えないわけですから、きっと平和であるということは争いがあっても変わらない平和というのがあるのでしょう。それはどのようなものでしょうか。その平和の源にあるものこそが、赦しであり救いです。絶対的な赦しであり救いこそが、本当の平和をもたらすのです。苦しみや悲しみがあっても、不安であっても、事の優劣をつけようとしたり、比べたりしても、それでもなお、あなたはそれでいい!そう言って赦されること、そういって救われることこそが平和をもたらすのです。それをなすのが福音であり、キリストの十字架と復活なのです。

 

ペンテコステの出来事を見ますと、弟子たちが色々な国の言葉で神さまのことを話し始めたことが記されていますけれども、「証人」であるということ、すなわち「証しをする人」であるということは、何も語ることに限定されません。救われ、赦され、愛されている者として、主の平和に生きるということこそがなによりも復活の主を証しするのです。わたくしたちはその復活の主に生きることにで証人となるのです。

 

コメントは受け付けていません。

2018年8月
« 8月    
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

写真 / 動画のページ (2)
礼拝案内 / 説教集 (77)

WP Cumulus Flash tag cloud by Roy Tanck requires Flash Player 9 or better.