使徒言行録2章1節~13節

聖書に記されているペンテコステの物語は使徒言行録にあるだけですので、毎年同じ箇所をお読みいたします。わたくしは牧師になって9年目ですので9回目のペンテコステの説教ということになります。皆さまの中には信仰暦50年以上という方もおられますから、何度もこの箇所を読み、説教を聞いてきたことだろうと思います。

時々牧師の間で耳にすることがあります。それは、何度も同じ箇所で説教していると語ることがなくなるというようなことです。そんなことがあるだろうかと思います。もし、語るべき者が何も語ることがないというならば、本当に何も語らない方がよいでしょう。またそのために聞くことがないならば語ることがなくて当然でしょう。わたくしたちは主の御声に耳を傾け、主の御声を聞いているのです。聞くことも語ることもないはずはないのです。

ペンテコステの物語に登場する使徒たちは、聖霊が降るまでは何も語ることが出来ませんでした。聞くことは出来ても、自分では悟ることは出来ませんでした。けれども、神さまが約束して下さった聖霊を受けると、彼らはイエスさまから聞いて来た言葉を知り、語る言葉が与えられたのです。それは、聞きたいことを聞き、語りたいことを語ったということではありません。主ご自身の御声を聞き、主ご自身が彼らの口を通してお語りになられたのです。だから使徒たちは聞くことが出来たのだし、語ることが出来たのです。すべては聖霊による主の御業なのです。

 

いつも皆さんと一緒に御言葉に聞いておりますのは、たとえどれほどの知恵や経験を持っていても、究極的には神さまの御前に立たされる時は役に立たないということです。ただ神さまが愛するとおっしゃられるのだから、わたくしたちは愛されているのです。ただ神さまが赦すとおっしゃられるのだから、わたくしたちは赦されているのです。神さまがあらゆることを恵みとしてくださるとおっしゃられるのだから、あらゆることが恵みなのだということです。これほどの愛は他にありません。わたくしたちがどんなに無知でも愚かでも神さまの愛が変わることはありません。神さまご自身がお語りくださるからこそ、愛が語られ、恵みが語られるのです。

使徒たちの姿を見る時に、わたくしたちは彼らのことを他人事には出来なくなります。頼るものをすべて失って、なお怯えて過ごさなければならなかった使徒たちは、本当になにも持ちませんでした。故郷を離れ、仕事も捨てて、家族も置いてきました。イエスさまのような奇跡を起こす力もありません。病を癒すことも、悪霊を追い出すことも出来ませんでした。もちろん語る言葉も持ちませんでした。もはや、そこに残った使徒と数人の婦人たちの他はなにもありませんでした。

彼らに出来ることはたった一つのことでした。それは、復活されたイエスさまが「父の約束されたものを待ちなさい。…あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と言われた言葉を信じて待つ事だけでした。イエスさまがおっしゃられた言葉を何度も何度も思い起こしながら待ったのです。御業を思い起こしながら、復活されたイエスさまの言葉を信じて待ったのです。心を一つにして、祈りながら待ったのです。そこにこそペンテコステの出来事は起こったのです。

 

わたくしたちに出来ることも使徒たちと同じように、基本的には一つのことしかありません。それは、一つのところに集まって、御言葉を聞いて、主が約束された時が来るのを待つということです。しかし、そこにこそ、神さまの偉大な御業がなされるのです。ただひたすら御言葉を聞き続けるのです。そこに聖霊の執成しがあります。ペンテコステが起こるのです。主が聖霊をくださるそこに神さまの御業が成されます。そこに神さまの愛が、赦しが、恵みが満ち溢れるのです。

 

コメントは受け付けていません。

2018年5月
« 8月    
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  

写真 / 動画のページ (2)
礼拝案内 / 説教集 (77)

WP Cumulus Flash tag cloud by Roy Tanck requires Flash Player 9 or better.