6月17日「油を注がれた者」

ヨハネの手紙一2章22節~29節

「油を注がれた者」という言葉は、ギリシア語で「キリスト」と言います。「キリスト」はヘブライ語で「メシア」です。つまり「油を注がれた者」というのは「救い主」と同じ意味なのです。

ヨハネの手紙一2章20節で「あなたがたがは聖なる方から油を注がれている」と言われております。わたしたちも「油を注がれた者」なのだと言うのです。でもわたくしたちは決して「わたしが救い主だ!」などとは申しません。では、この言葉にはどういう意味があるのでしょうか。

ヨハネの手紙が書かれた当時は、世の終わりが近づいていると信じられていましたし、救い主の登場を信じている人たちが大勢いましたから、「わたしがキリストだ!」とか「ナザレのイエスは救い主じゃない!」と言う人たちがいました。現代にも、特に新興宗教にそういう人がおります。聖書はそういう人たちに向かって「反キリスト」と言っています。確かにそういう人はすべての人を救うことなどできないのですから「偽り者」です。さらに22節には「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。」と言われております。わたしがそれだと言わないまでも、イエスさまを救い主としないということであっても偽り者であり、反キリストであると言われているのです。

大変厳しい言葉です。もしわたくしたちが、イエスさまを救い主としない誰かを黙認しているとするならば、あるいは、愛する者がそうして偽り者であることを見過ごしているとするならば、わたくしたちもまた同じく偽り者であることになりはしないかと問われるからです。もっとも、牧師であり教師であるわたくしは神さまの御顔から隠れたくなるほどです。もっと真剣に、親身に、色々出来たじゃないかと思います。自分の弱さが露わにされるわけです。自分にがっかりするのです。

 誰でも、神さまの愛、恵みを思えばこそ、自分の弱さ、いたらなさにがっかりしたことがおありでしょう。聖書を開いて御言葉に耳を傾けますと、実はそれでいいと言われるのです。自分にがっかりする。言い換えると、砕かれるということです。もっと言えば、自分の十字架を背負うということです。

 27節に「いつも、あなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要はありません」とあります。「あなた方は聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。」真理とは、どうしようもない罪人が、ただキリストの十字架の死と復活によってしか救われようのない罪人が、まさに御子である主イエス・キリストの十字架の死と復活によって救われたということです。唯一の救いです。救いの事実こそが真理なのです。

 自分にがっかりして、打ち砕かれて、十字架を背負う時にこそこの真理を知るのです。神さまに油を注いで頂けるのです。それは自分がキリストになっている時ではありません。自分が救い主になっている時、つまり、神の義によってではなく自らが義となっている時は真理を知り得ないのです。主イエス・キリストの十字架によってしか救われないと信じる信仰においてのみ、このキリストにつながっている時こそ、わたくしたちは父である神さまにつながっているのです。

 聖書を開いて、父なる神さまが御子イエスさまをどれほど愛しておられたか、イエスさまがどれほど父なる神さまを愛しておられたかを知る時、わたくしたちもまた御子イエスさまによってつながれて父なる神さまの愛を、イエスさまと同じようにして受け取るのです。この愛こそが神さまがお注ぎくださる油でありましょう。イエスさまに注がれた愛と同じ愛で愛されているのです。

 

コメントは受け付けていません。

2018年11月
« 8月    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

写真 / 動画のページ (2)
礼拝案内 / 説教集 (77)

WP Cumulus Flash tag cloud by Roy Tanck requires Flash Player 9 or better.