8月19日「キリストの思いを抱いて」

 今朝お読みいたしましたところの16節の括弧書きのところはもともとイザヤ書40章の御言葉です。そこに記されておりますことは、人は海をも天をも地をもはかり尽くして、それを神さまに教えようとさえするということです。つまり、人は何でもかんでも自分のものにしようとして、神にさえなろうとするということです。しかし、そこで理解出来るものならばよいのですけれども、理解出来ないことは受け入れようとさえしないのです。

 得体の知れないものというのは確かに心に恐怖や不安を生じさせます。病にしろ老いにしろ、なにかしら困難を持っている者にとっては明日さえも自分にだけは隠されていて、裁きの座に立たされていると信じ込んでしまうほどの恐怖の対象になります。それが何かを知っているということはある意味安心を得ることであります。

 ですから、恐怖をぬぐい去らせるために人はあらゆるものを探求し、学び、得ようとしてきたと言えます。そこにある問いがどのようなものかを最も単純に言うとするならば、今日という日の、今という時の、目の前の些細な出来事に対することが何かを知りたいという問いであると言ってよいのではいあだろうか。けれども、それは、遥か彼方の宇宙の端っこの出来事を知るよりもはるかに難しいことなのです。今何によってことが起こっているのか、今自分はどこに立って、何のために生きているのかを知ることは難しいことです。

 そこで、聖書は語ります「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ7:7)と。本当はこの世に隠され、閉ざされたままのものは一つもありません。得体の知れないものなどないのです。だから恐れる必要などないのです。神さまは天地創造の6日目に人を創造された時「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世1:28)とおっしゃられました。

 この世のすべてのものは神さまのご支配のもとにあります。そして、神さまはご自分がご支配なさっておられるあらゆるものをわたくしたちにお与えくださいました。すべてのものは、一切は神さまから与えられた恵みであり、それらは救いへの導きなのです。命も死も、死の先のこともすべて神さまの恵みであり愛に満ちあふれているのです。もちろん今日のことも、今のこともです。わたくしたちは、ただ一方的に神さまからの恵みと愛を受けているのです。

 それでもなおわたくしたちの心の内には疑いがあります。本当にそうですか?と問います。この問いへの答えが今朝の箇所の御言葉であろうと思うのです。それは、「霊を知る」ということであり、また「キリストの思いを知る」ということに他なりません。不思議に思われるかもしれませんけれども、霊を知り、キリストの思いを知ることこそ、わたくしたちの抱く疑いや問いをきれいさっぱり取り払うことなのです。それらは、ただひたすらに信仰によってしか知り得ません。ですから、もし、今日のこと、明日のこと、また人生のことについて問いを抱くならば、信仰に生きるより他に答えを得る方法はないのです。それは神さまの御心を知ることであり、また神さまの恵みと愛に委ねて生きるということです。

 信仰に生きるということは、おそらく世的には宗教を持って生きるという意味で、なにやら面倒なイメージになるのかもしれませんけれども、信仰に生きるということは、ただ主イエス・キリストの十字架の出来事が救いの出来事であるということを受け入れて生きるということです。赦され救われた者として生きるということです。あなたは愛されている!これこそが霊に生きるということであり、キリストの思いを抱いて生きるということなのです。愛されて生きているということです!そして愛に生きる!これこそ本当の喜びに生きる生き方なのです。

 

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