9月2日「光となる」

エフェソの信徒への手紙5章11節~20節

「光」と「闇」との対比は聖書によく出てまいります。「光」は「神」に属するもので、喜びや慰め、愛と命の喜び、救いをもたらす神さまの御業です。一方「闇」は「滅び」や「死」に繋がるもので、悲しみや苦しみ、怒り争いを生じさせるものです。「罪」と言い換えることが出来ます。

けれども、ただ自分だけが喜ぶものや慰めを感じるものであって、それゆえに他者を傷つけたり苦しめるものであるならば光どころか闇の出来事になってしまいます。逆に、自分の受けた苦しみや悲しみゆえに、他者が喜びや楽しみを得るならば、それはかえって光の出来事になるということがあります。自己犠牲や奉仕というものがありますけれどもこれらはまさに光に属するものです。

今日は、4名の学生の方々が来て下さいました。彼らは、わたくしが2月に石巻エマオでボランティアを一緒にした方々です。こうして足を運んでくださったことを心から嬉しく思いますし感謝しております。ボランティアを共にする中で彼らと光の出来事を経験しました。

ボランティアをするということはある意味能動的な活動ですけれども、その中身はひたすら求められていることだけをする受動的なものです。自分からあれこれすることはいたしましせん。100%相手のことだけを考えてワークをします。望まれていることだけをするのです。2月の東北地方は針のような寒風が肌を刺します。その中でワークをすることはそれだけで辛いことでした。けれども、うつむいて、嫌々ながらはいたしません。一緒に盛り上げながら、楽しくワークをいたしました。そうして喜びながら、楽しみながらワークをする姿もまた、被災なさった方々の励ましになるように心掛けました。

地震の爪痕を見ながら、きっとそこかしこで亡くなられた方がおられただろうということも感じました。痛々しいほどに荒廃した町を見ること自体楽しいはずはないのです。ワイワイ楽しんでワークをすることを不謹慎だと思われた方もおられたかもしれません。ただ楽しいはずはありません。ちゃんと心の内に痛みを覚えながら、噛みしめながら、悲しみの内に用いられ、喜びとされることを喜びました。まさにここでいう「光」の出来事でした。そこにどれほどの痛みや悲しみや苦しみがあろうとも、光の出来事は起こるのです。愛の出来事、命の出来事、喜びをもたらし、慰めとなる出来事は起こるのです。

9節に「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」とあります。大切なことはそれが光から出たことかどうかを見分け、わきまえるということです。それは「光」そのものなる方を知らなければなりません。この「光」なるお方こそ父である神さまであり、また救い主なるイエス・キリストなのです。

父なる神さまは裁きをお捨てになられ、ご自分の大切なひとり子なるイエスさまを、まるで暗闇に包まれているようなこの世にお遣わしになられました。イエスさまはすべての人の罪のいけにえとして十字架におかかりになられ命を捨てられました。そこにどれほどの苦しみと悲しみがあったでしょうか。救い主の死こそ本当の闇に見えました。しかし、そこにこそ救いが成し遂げられ、わたくしたちに永遠の命が約束されたのです。神さまのその苦しみ、悲しみの先に光の出来事が起こったのです。

今なおこの世は時に闇に閉ざされているように見えることがあります。天変地異、戦争、飢餓。それだけではありません日常の中にも、人を人とも思わないで自分勝手に生きている人がいます。誰も光なんか求めていない、見ていないように見えます。けれども、そこにこそ光は灯されるのです。それは、光なるお方を知り、光なるお方と共に歩み、光なるお方と同じように光となる者たちがいるからです。「すべてのものは光にさらされて、…光となるのです。」わたくしたちは今日、ここで光なるお方を知りました。だからわたくしたちは光となったのです。世を照らす光となって歩みましょう。

 

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