9月16日「真(まこと)の自由に生きる」

ペトロの手紙一2章11節~17節

宗教(信仰)を人生から遠ざけている人の中には、それが「自由」を奪ったり制限すると考えている人がいます。これは大きな偏見と言えます。確かに、宗教(信仰)の中にはそういう偏見を生じさせているものがあります。ユダヤ教のように、戒律や規則を厳しく守ることを教えの中心にしているものがそうであると言えます。あるいは、慣習などによって盲目的に宗教的儀式をするということも同じであると言えるでしょう。 

 信仰において選択されている事柄であるならば、それは本質的には自由を制限しているものではありません。むしろ、自由の用い方を学んでいるのだと言えます。戒律も規則も本質的には自由に生きるために用いられるものであったはずなのです。なぜなら、それを守ることによって救われたり、清められると信じられているからです。けれども、そういう自由の用い方を教えられていながら、信仰に生きる者が、真(まこと)の自由を用いて生きることが出来ないでいるとするならば、やはり、その教えは間違っているとさえ言えると思います。 

 たとえば、禁止事項や義務というのは、なにも宗教や信仰に限ったことではありません。日本に生きる者は、日本の憲法や法律を守らなければなりませんし、国民の義務を果たさなければなりません。しかし、誰もこれらのものが自分から自由を奪ったり制限しているとは感じないでしょう。真の自由はこのような自由とは違うのです。いうなれば「魂の自由」と言えるでしょう。 

 聖書には、姦淫の罪を犯した女性が石打の刑に処せられるところをイエスさまに救われた物語があります。また、イエスさまご自身も安息日規定を破って咎められたことがあります。自由というのは何かによって奪われたり制限されるものではなくて、救いと関係しているのです。救いを得るためにあらゆる事柄から自由にされるのです。けれどもここに自由の問題があります。与えられている自由を真の自由たらしめないものが自由の中にあるということは驚くべきことです。真の自由を真の自由たらしめない自由がわたくしたちにはあるのです。

  それは、肉や世の出来事に囚われることによって起こると言えます。誰も肉や世のことに囚われているなどと思っていないところでそれは起こっているのです。使徒パウロが「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。…奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラ5:1)と語りました。ここでの「奴隷の軛」とは「罪」のことですけれども、それは禁止事項を破ったり義務を怠るということではありません。キリストの軛につながれた者として、神さまのものとして生きないということです。

  真の自由は、ただ神さまのものとして生きるということにおいて発揮されるのです。それは、神さまの愛のうちに生き、赦しを受け取り、慰められ、平安のうちに生きるからです。ルターは「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。大胆に悔い改め、大胆に祈れ。」と語りました。これは、罪の奨励ではなくて、自分が罪人であることを隠さなくてもよいということです。この罪のうちにキリストは来て下さるのです。だから、大切なことは、大胆な悔い改めと祈りです。パウロが「わたしは罪人の頭です」と語ったことがまさにこれです。「わたしは罪人です。しかし、この罪人のためにあなたは来られお救い下さったのです。」体が清められ魂が救われる以上の自由があるでしょうか!

  何が善いことで悪いことかを判断出来るということは大切なことです。罪を犯さないことは大切なことです。けれども、もっと大切なことは、神さまの愛と赦しの中に生きるということです。「愛する人たち、あなた方に勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」これは、信仰に生きる者は愛と赦しと慰めに満ちた神の国の住人なのだから、戒律や裁きに打ち勝った者として、神のものとして生るということです。ここにこそ真の自由があるのです。「立派に生きる」というのは完璧な人間になることではなくて、ただひたすら神さまのものとして生きるということ以外にないのです。

 

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