9月23日「キリストの愛に生きる」

エフェソの信徒への手紙3章14節~21節

 この世にはキリストの愛が満ち溢れています。教会にも、信仰に生きるわたくしたちの体と魂の内にもその愛が満ち溢れております。キリストの愛が届かない所はどこにもありません。どんな所にも届いて満ち溢れるのです。

 使徒パウロが祈ります。エフェソの教会のために、すべての教会のために、もちろん、わたくしたちの教会のためにも祈っています。「キリストの愛が満ちあふれるように」と。その祈りのはじめに、神さまによって、この世のすべての教会に連なるキリストにある家族には「キリスト・イエスの名が与えられている」と祈っています。

 「キリストの名が与えられている」というのはどういうことなのでしょうか。わたくしたちが求めていることは、キリストの名が与えられることよりは、もっと具体的な愛や、より具体的な恵みの御業ではないでしょうか。日常の問題が解決されるとか、様々な事柄が思った通りになるとか、そういうことを願っていないでしょうか。

 わたくしたちの求めや願いが聞き届けられるためになによりも大切なことが、キリストの名が与えられているということなのです。神さまの愛や恵みの源は、キリストご自身だからです。キリストの名が与えられているということこそが、神さまの愛と恵みを受け取るための保証なのです。なぜなら、キリストの名が与えられているということは、神の家族であることの証しだからです。神さまの家族なのですから、お父さんである神さまがいつも家族であるわたくしたちを愛し、恵みを注いでくださることが分かるのです。わたくしたちは、この家族の交わりに招かれたのです。そして、同時にこの家族の交わりに一人でも多くの人を招きたいと願っているのです。

 イエスさまが弟子たちを伝道に派遣する時に悪霊を追い出す権能を授けられ、それから「イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」(マタイ10:6)と言われました。伝道というのは、キリストの救いの中に招くことですけれども、同時に、家族を探し出すことでもあるのです。ルカ福音書15章の「失われたもののたとえ」を思い起こします。「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」のたとえです。信仰に生きるということは。神さまに見つけ出してもらって、羊の群れに連れ帰されることであり、持ち主の手に返ることであり、また、その喜びの宴で祝ってもらうということなのです。

 何度も繰り返し聞いてきたことを改めて申しますと、わたくしたちの何かが認められたから神さまの家族とされたのではありません。わたくしたちの何かが、神さまの愛や恵みを証しするのでもありません。ただひたすら、主ご自身が、神の家族を造り、その愛と恵みを証しなさるのです。それが教会です。ここが主ご自身の家であるからこそ、主ご自身が愛と恵みを注がれるのです。

 欠けが多く、破れもたくさんあって、罪を犯してしまうわたしたちです。教会も大きくはありません。そんなわたくしたちが、自分たちの足元や懐を見たってキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを証しし得るはずがないことは十分に分かります。けれども、こんなわたくしたちと教会に、無限なるキリストの愛が満ち溢れているのです。主が共におられるからこそ、わたくしたちは恵みの内に満たされて歩むことが出来るのです。

  これからも、キリストの名が与えられた家族として信仰に生き、キリストにある残された家族を捜す伝道の道のりを歩み続   けてまいりましょう。そこで主の愛と恵みが満ち溢れていること、その喜びを味わい知ることが出来ます。そうして、わたくしたち自身が主に喜ばれてきたことを思い起こしながら、一つの家族とされていることを思い起こし続けながら信仰の道のりを歩んでまいりましょう。

 

 

コメントは受け付けていません。

2018年8月
« 8月    
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

写真 / 動画のページ (2)
礼拝案内 / 説教集 (77)

WP Cumulus Flash tag cloud by Roy Tanck requires Flash Player 9 or better.