9月30日「すべては神さまのもの」

ローマの信徒への手紙11章33節~36節

使徒パウロがローマの教会のために祈ります。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン」この祈りはわたくしたちへの祈りでもあります。

 世界最大級の都市ローマには、世界中からあらゆるものが集まってきました。人や物だけではなく文化や思想もです。「すべての道はローマに通ず」ということわざがあります通り、すべてのものはローマに集まり、ローマ帝国、ローマ皇帝のものと考えられていました。その中にあってパウロは「すべては神さまのものだ!」と祈ったのです。

 わたくしたちは時に、これは神さまのものか、そうではないかと考えます。神さまの御心にかなっているかどうか考えます。自分が望まないこと、苦しいこと、悲しいこと、辛いこと、嫌なことは神さまからのものではないと思いたい、出来ればいつでも喜びのうちに楽しんで受け取れる恵みを頂きたいと願っているところがあります。けれども、そういう願いや求めばかりすることは神さまの御心からは遠いかもしれません。

 わたくし自身も時に愚痴をこぼすことがあります。牧師でありながら一人の人間としての弱さを覚えることがあります。それでも、坂出教会でこうして皆さんと一緒に礼拝を献げて、祈り、讃美をいたしますと、他の何ものによっても得ることの出来ない心の平安を得られます。その平安の中で日常の中で神さまの御心から離れてしまっていたことを思い起こしながら、すべてが神さまのものであったことを改めて受け取ることが出来るのです。今日ここで礼拝において平安を得るために、日々の歩みを主がお導きくださっていたことを知ることができるのです。

 パウロの祈りは単なるローマ帝国への「否」ではありませんでした。そういう側面もあったと思います。信仰の戦いを促すそういう面もあったでしょう。けれども、この祈りの本質は、人の支配やその時代に生きることを受け入れながら、すべて神さまのものであることを受け入れることを促す祈りなのです。共に祈りを合わせて、神さまの御心を受け取るための祈りなのです。

 信仰に生きるということは、物事を「善」や「聖」と「悪」や「罪」というようにして相対的に見たり、対立的に見たりすることではありません。そういう見方は神さまの御心を知り得ません。自分が中心になってしまっているからです。神さまは、罪の中にこそ赦しと救いを実現なさるのだし、人の弱さの中にこそ神さまご自身の強さを現わしてくださるのです。苦しみの中で憐れんでくださり、悲しみの中で慰めてくださるのです。

 ある御言葉の説き証しの中で「信仰によって神のものと地上のものとを分けたり見比べることは、実は人間の傲慢の以外の何ものでもない。あなたがたは信仰によって神になったのではなく、信仰によって奴隷になったのです。奴隷は主人が支配しているあらゆるものに対してただ仕えるだけなのです。わたしたちは主の奴隷なのです。」と語られているものがあります。

 主の奴隷であるわたくしたちは、ただひたすら主を崇めその御顔を仰ぎ、御言葉に聞き従って生きるのです。この礼拝に おける喜びによって、信仰に生きる喜びと平安によって、わたくしたちはすべてのものは神さまのものであることが分かるようになるのです。主はそのようにして、わたくしたちに苦しみも悲しみも与えられるけれども、しかしそのただ中で共にお立ちくださるのです。そして、この世に教会をお建てになられたのは、ここでこすべては神さまのものであるということがはっきりと分かるためだったのです。神さまはいつも共にいてくださいます。すべてを益として備えてくださっておられます。すべては神さまのものなのですから安心して信仰の道を歩みましょう。

 

 

コメントは受け付けていません。

2018年5月
« 8月    
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  

写真 / 動画のページ (2)
礼拝案内 / 説教集 (77)

WP Cumulus Flash tag cloud by Roy Tanck requires Flash Player 9 or better.