10月21日「キリストのゆえの喜び」

フィリピの信徒への手紙3章7節~21節

キリストの使徒パウロの経歴は、他の誰にでも誇れるほど輝かしいものでした。民族としても、家柄としても、その所属も、生き方も申し分ないものでした。わたくしたちも時に耳にいたします。出身がどこで、由緒ある家柄で、有名大学で、大企業で…とか。あるいは大教会や、有名牧師から洗礼を受けた…とか。

 この世的には、パウロが言うようにそれらは有利なものかもしれません。実際にそういうことで判断されるようなことがあります。でもそれは、神さまの御心とは直接関係あるのかよく考えなければならないでしょう。本当にキリストの内における有利となるかどうか。この世に誇れるものがあっても、それが神さまの御前での誇りにはならないからです。

 そもそも、イエスさまは、貧しい者、やもめ、病の人、罪人のレッテルを張られている人、そういう人たちのところへ行きました。祭司長や律法学者、ファリサイ派、長老たちのような権力を持っている者たち、あるいは金持ちたちには大変厳しく接されました。イエスさまがこの世的な有利などというものをちっとも有利とみなしておられなかったことがよく分かります。

 この世的な誇りや力のすべてが悪いということではありません。大切なことは、それらが神さまとどのように関係しているのか、イエスさまのなさった救いの御業とどのように関係しているのかということをわきまえておくことが大切なのです。

 パウロは、そのようなこの世に誇るものがあればあるほど、キリストの内にあって損失は大きくなるのだと言います。肉の誇り、この世の誇りを持っていればいるほど、キリストのゆえの損失は大きくなるのです。そして厳しいことに、そういう損失なしに、イエスさまに従うことを、イエスさま御自身がよしとされないのです。

 「金持ちの男」の物語を思い起こします。イエスさまは彼が永遠の命を得たいと願った時、「あなたに欠けているものが一つある」と言われ、持ち物をすべて売り払い、貧しい者に施して、それから従いなさいと言われました。この男はそれを聞いて悲しみの内に立ち去りました。

 誰が本当にそんなことが出来るでしょうか。わたくしたちの欠けは一つどころではありません。たくさんの欠けがあります。問題は、わたしにその欠けを埋められるかどうか、言いつけを守ることが出来るかどうかではありません。この「たった一つの欠け」はわたくしたちにはどうすることも出来ないのです。わたしたちが自分で自分を救えないように、キリスト自身になれないように、どうしようもないのです。

 イエスさま御自身がそのことを知っておられます。だからこそ、イエスさまはわたくしたちをご自分のものとしてくださったのです。ただイエスさまだけが、この欠けを補い、イエスさまに従うゆえの損失をより大きな恵みにかえることがお出来になるのです。だから、わたくしたちは信仰において、この世の損失を恐れません。喜びをもって自分自身を神さまの御前に献げるのです。神さまはそれをお喜びになられ、わたくしたちの損失以上のもっと大きな恵みを注ぎ喜ばせてくださるからです。

 パウロも「わたしは、すでにそれを得たわけでも、完全な者になったのでもありません。何とか捕らえようと努めています。」と語ります。そうです!キリストのゆえの損失は、今すぐに出来るものではないのです。信仰の歩みを歩み続けるなかで主が出来るようにかえてくださるからこそ出来るようになるのです。いやすでにわたくしたちはその損失を惜しまずにしています。自分を神さまに献げています。信仰に生きるということ自体がこの世における損失なのです。この信仰における損失はキリストのゆえの大きな喜びなのです。

 

 

コメントは受け付けていません。

2018年11月
« 8月    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

写真 / 動画のページ (2)
礼拝案内 / 説教集 (77)

WP Cumulus Flash tag cloud by Roy Tanck requires Flash Player 9 or better.