11月18日「愛と祈りをもって」

マタイによる福音書5章38節~48節

 イエスさまが「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とお命じになられたのは、わたくしたちが「あなたがたの天の父の子となるためです。」イエスさまは、敵を愛することが出来る者になることや、自分を虐げる者たちのために祈ることが出来る者になることを命じておられます。もちろんこれらの命令を守り、実行出来る者になることをキリスト者であるわたくしたちに望んでおられることは間違いないでしょう。けれども、この命令は信仰の中心的事柄ではありません。大切なことは、わたくしたちがちゃんと神さまの子どもとして生きるということです。

 時に、神さまの子どもとして生きること、つまり信仰に生きることの中心的事柄に、このような命令を置くような言葉を聞くことがあります。わたくしはそれは間違いであると思っています。わたくしたちが信仰に導かれたのは立派な人間になるためではありません。むしろ自分ではどんなに頑張っても神さまの目にかなうほど立派にはなれないからこそ、愛と力に満ちた神さまにまったく頼って生きることが出来るように、主ご自身がわたくしたちと共にいてくださるのです。

 例えば、イエスさまが中風の人を癒された時(マルコ2:1-12)、イエスさまが中風の人に「あなたの罪は赦された」とおっしゃられたことを律法学者たちは「神を冒涜している」と非難しました。イエスさまは「『あなたの罪は赦される』と言うのと『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」とおっしゃられました。罪をお赦しになられてから病を癒されたのです。これは、「罪の赦し」が「病の癒し」に先行するということです。律法学者たちは一人の人が救われて生きることよりも、神を冒涜しないことを律法の中心と考えていました。でもイエスさまは違いました。一人の人の罪が赦されるということこそ神さまの御心そのものであることを良くご存知でした。

 また、イエスさまが安息日に麦の穂を摘んで食べていた時(ルカ6:1以下)、ファリサイ派の人たちが「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか。」と尋ねられた時、イエスさまは「人の子は安息日の主である」とおっしゃられました。安息日の主が誰であるかをわきまえておくことは、安息日の律法を守ることに先行するのです。主に従うことは律法を守ることに勝るのです。大切なことは、聖書や律法に記されていることをその通りに守れるか守れないかということではなくて、そこに示されている主の御心を知るということです。主の御心はわたくしたちを何かに縛り付けたり、強制するために語られているのではなくて、いつでも、赦しを与え、自由を与え、喜びを与えるものとして語られているのです。

 信仰において、確かに律法や掟を守ることあるいはそれにふさわしい行いや態度が求められたり命じられていることがあります、けれども、そういったものが神さまの御心あるいは神さまの恵みに先行することは決してありません。神さまが望んでおられるのは、わたくしたちが罪の赦しを得て生きることです。そこにこそ愛があるからです。そうして神さまの赦しの中に生き、愛の中に生きることこそ神さまの望んでおられることの中心的事柄なのです。それゆえに、これこそが信仰の中心的事柄なのです。

 わたくしたちがキリスト者として何をするか、何が出来るか、御言葉を守れるか守れないか、ふさわしいかどうかは二の次で良いのです。もちろんそういうことは問われます。けれどもそこで問われているのは行いではなく信仰なのです。「あなたはわたしの子」と言われる主に「わたしはあなたの子です」と答えて生きる信仰が問われるのです。わたくしたちの行いではなく、主ご自身の御心を受け取っているかどうかを問われるのです。

 イエスさまは、この神さまは「悪人にも善人にも、太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」とおっしゃいました。わたくしたちは信仰に生きるとしても、結局は自分を愛してくれる者を愛し、挨拶をしてくれる兄弟にだけ挨拶をするような者です。徴税人や異邦人と変わらないのです。律法学者とさえ変わらないのです。ただ神さまだけが、罪を犯す者にも、善人にも、キリスト者にも分け隔てなく愛と恵みを注ぐことの出来るお方なのです。その神さまの子どもとして生きるということはそういう神さまの御心の内に生きることに他なりません。

 イエスさまが「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とおっしゃられているのは「人間的な完全」ではなくて「神さまの完全があなたに現われるようになさい」という意味です。神さまの完全とは、全き罪の赦しと愛と恵みをすべての人に等しく与えることがお出来になられるということです。わたくしたちは罪人であるがゆえにそれをすることは出来ません。でも、罪人だからこそ、神さまの赦しと愛と恵みにどっぷりつかって、それを受け取ることが出来るのです。善人になってしまったら、義人になってしまったら、聖人君子になってしまったら神さまの愛も恵みも必要なくなってしまうでしょう。それは神さまの御心ではありません。罪人として神さまの愛にどっぷりつかってそうしてはじめてわたくしたちはまったき愛を知り、また祈りを知るのです。神さまこそがわたくしたちのために愛と祈りを持って神さまの子どもとして生きることをひたすら待ち望み、寄り添っていてくださっているのです。そのことが分かってはじめて、わたくしたちもまた愛と祈りをもって生きることが出来るようになるのです。

 

 

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