11月25日「最も小さい者を助ける」

マタイによる福音書25章31節~46節

 どうして人は神を信じるのか。あるいは信じたいと願うのか。神なんかいないという人もいますし、神なんかいらないという人さえいます。色々と調べますと、心理学的にあるいは科学的に説明しているものがあります。様々な理由やそれぞれの筋道で、神を肯定したり、否定したり色々な考えがあることがわかります。

 キリスト者であれば多かれ少なかれ「神がいるって証明してみせて!」とか「神を信じるってどういうことか説明してみせて!」という風なことを問われたことがあるだろうと思います。しかしこれはなかなか難しいことです。牧師であるわたくし自身も神の存在を証明したり、信仰とは何かを上手く説明出来ないところがあります。

 イエスさまは「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」とおっしゃられました。これは簡単に言えば終わりの日の裁き(救い)のことを言っています。終わりの時が来たら誰もが神さまの御前に立たされて「あなたは羊」「お前は山羊」という風にお分けになられるというのです。

 この御言葉の大切なことの一つは、その「時」を知っておられるのはただ父である神さまだけだということです。そしてもう一つ大切なことは、救い主の方から「来られる」ということです。つまり、終わりの日の裁き(救い)について、人間の側には一切の根拠は置かれていないといことです。善人であろうと悪人であろうと、信仰があろうとなかろうと、時をもたらすのも、その時に応じて来られるのも、一切は神さまの御心次第なのです。その神さまの御心を変え得るものをわたくしたちは持ち得ないのです。

 けれども次のところで「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに尋ねてくれた」だから「お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と語られております。「えっ!結局善いことをしないと救われないってこと!?」と思ってしまいます。イエスさまはこのような者たちのことを「正しい人たち」とおっしゃいます。なんだかんだ言って「正しい者」、「善い者」こそ救われるということなのでしょうか。

 そういうことが言われているのではないとはっきりと言わなければなりません。善いことをしたから救われるとか、あるいは善いことが出来なければ救われないのではないのです。確かにここで語られている人たちは「正しい人たち」と言われ「善いこと」をして来たようです。でもこの「正しさ」、「善さ」が救いの根拠になるのではありません。もちろん「善いこと」と「悪いこと」を区別し、判断出来て、尚且つ実行出来る方が、神さまはお喜びになられ、より救いに近づけてくださるだろうと思います。でも、この「正しい人たち」は、「いつわたしたちはそのようなことをしたでしょうか」と答えるのです。まるで自分がいつ善いことをしたか覚えていないのです。知らないうちに善いことをしていたかのようです。

 神さまがお喜びになられるのは、「善いこと」と「悪いこと」を区別し判断し実行出来る「正しい人」、「善い人」ではありません。知らないうちに、当たり前のように「善いことが出来る者である」ことなのです。心の内側に「善さ」を持っている人と言ってよいだろうと思います。これは見方を変えれば「愚かさ」にも見えます。損得勘定なんか考えもしないからです。誰にも気がついてもらえないことをするからです。善いことなんて思わずにそれをするからです。この世からの、あるいは人からの見返りはないと言ってもよいでしょう。

けれども神さまはしっかりとそれをご覧になられているのです。もちろん悪いことも神さまはしっかりとご覧になられております。おそらく善いことが出来た方が悪いことをするよりは救いに近いと言えるでしょう。けれども、自分の救いのためにそれをするとするならばそれは律法主義と同じです。神さまは自分が救われたいから善いことをする者や自分が救われたいか正しいことをする者をお喜びになられるでしょうか。聖書には「命を得たいと思う者は命を捨てなさい」と記されています。大切なことはそれが出来るか出来ないかではなくて、そこで命の主を見るということです。知らないうちに、何も考えないで、弱っている者に手を差し伸べる時、わたくしたちはそこで神さまとお会いし、また見ることが出来るのです。

 わたくしたちが神さまの存在を証明してみせなくても、信仰を説明してみせなくても、神さまはこの世の最も低い所、最も小さな者の内におられるのです。救い主であるイエスさまこそ誰よりも低くなられ、小さくなられて十字架におかかりになられたからです。そうして罪人であるこのとるに足りない小さなわたしを主はお救い下さったのです。主ご自身が誰よりも低く小さくなられたのですから、このわたしよりも小さく低い所にいるように見えるその場所に主がおられるのは当前のことです。

 だからこそわたくしたちは小さくへりくだって信仰の道程を歩みます。どんなに小さくなってもそれよりもなお小さくなられる主に出会うために。どんなに低くへりくだってもそれよりもなお低い所にへりくだっておられる主に出会うために。そこでこそ約束された命を受け取れるのですから、わたくしたちは小さな者に手を差し伸べて信仰の道のりを歩んでまいりたいと思うのです。

 

 

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