12月9日「救い主につまずく」

マタイによる福音書13章53節~58節

 現代社会の多くの人たちが救いを求めていると思うのです。例えば、最初に思い浮かぶのは一人暮らしの高齢者の方々です。日本では60歳以上の7人に1人が独居老人でありその人口は既に400万人を超えているという統計があります。次に、他に重い病気を患っておられる方々を思い浮かべます。本人のみならずそれを支える家族にも救いが必要でしょう。あるいは劣悪な家庭環境の中で育てられる子どもたちのことも思い浮かべます。今最も深刻と思われるのは介護の問題です。介護される側もする側も肉体的、精神的に疲弊しきっています。これら以外でも、大小問わず何かしらの問題を抱えている人たち。あるいは人生をよりよいものにしたいと願う人たち。ほとんど全ての人が何らかの救いを求めていると言えるでしょう。

 けれども、考えさせられるのは、そういった多くの人たちが求めている「救い」が根本的な救いになるだろうかということです。そこで求められているのはいつも問題が解決されることです。状況が変化することです。言いかえれば、神さまがいない状況に神さまが来られることが求められていると言ってもよいかもしれません。けれどもそこで求められている「神」は本当の「神」なのだろうかと考えさせられるのです。

 わたくしたちは本当の神さまを知っています。神さまはおられない方ではなくて、いつもすぐ隣にいてくださるお方です。わたくしたちをお救い下さったお方です。だからもう既に救いの出来事は起こっているのです。それに気がつくことさえ出来れば、実は、救いは問題が解決されるとか、無いものが与えられるとか、状況が変化するということにではなくて、その問題の中に、苦しみや悲しみの中に、痛みの中にあることを知ることが出来る。それこそが本当に救われるということではないかと思うのです。

 今朝のところには「つまずき」という言葉が出て参ります。わたくしたちは、順調に歩いていたのに思いがけず石につまずいて転ぶようなイメージを持つかもしれません。確かにそういうこともあるでしょう。でも本当の「つまずき」というのは、自分が順調に歩いているところに妨げになる何かが起こってコケてしまうということではなくて、もう既にそこに用意されている救いを受け取ることが出来ないことを言うのではないかと思うのです。つまり、そこになにが起ころうとも、たとえコケたとしても救われている者はそこに救いを見出すことが出来るのだけれども、それを見出すことが出来ないことを「つまずき」と言うのではないかと思うのです。

 現に今朝お読みいただきました所にそういうこととして「つまずき」が記されております。イエスさまの故郷ナザレの人たちは会堂で教えておられるイエスさまを見て、教えを聞いて言います。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」彼らはイエスさまの氏素性をよく知っていました。彼らももちろん救いを求めていました。でも、あのヨセフの息子のイエスが救い主だなどとは誰も信じなかったのです。それは、神さまのご計画を信じていたのではなく自分の良く知っていることを信じていたからです。自分のこと、置かれている状況や、望んでいるもの、そういうことをよく知っている者が、求めているはずの救いが訪れていることに気がつかないでいることがあるのです。それは、自分の知恵や力、経験に頼っているからです。

信仰によって救いを得るということは、自分の知恵も知識も経験も何もかも一切を捨てて、神さまの愛の中に、イエスさまの十字架の救いの出来事の中に生きることに他なりません。イエスさまの十字架の出来事は、人間の何ものもそれを反故に出来ないまったき神さまのご計画として成されたのです。大切なことはただそれを信じて受け取るだけなのです。わたくしたちがどれほどの知恵や経験を積んだとしても誰も自分のことを救うことの出来る者はいません。この世のあらゆるものも同じように、わたくしたちを救うことは出来ないのです。わたくしたちを救うことが出来るのはただ神さまだけなのです。

 イエスさまは「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言われました。それはナザレの人たちのことだけを指しているのではないと思います。なぜなら、この世は神さまがお造りになられた場所であるがゆえに主ご自身の故郷と言えるからです。また主はすべての人を神の子としイスラエルの民として家族にしてくださったのですから、主の家族とは世の全ての人のことを言っていると言えます。わたくしたちは讃美歌90番でも歌いますけれども「ここも神の御国なれば」と歌い、兄弟姉妹と呼び合って、神さまの子どもとして、互いに家族として信仰に生きるようになりました。信仰に生きるということは、ここが神さまの御国であり、わたくしたちは神さまの子どもとして家族として生きることです。

 そこにはつまずきは起こりません。つまずいたと思った所に主がおられることを知ることが出来るからです。このイエスさまが救い主だと信じて生きる者は、たとえどんな場所でも、どんな状況でも、そこに救い主である主がおられることを知るのです。未だに多くの人たちが主イエス・キリストを救い主であると信じることが出来ないで、かえって切に求めている救いそのものにつまずいています。わたくしたちがこの信仰の内に生きる喜びを世に証しして、一人でも多くの人とこの喜びを分かち合ってまいりたいと思うのです。イエスさまがわたくしたちの救い主としてわたくしたちの内に生きて働いてくださいます。

 

 

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