12月23日「神さまが共におられる」

マタイによる福音書1章18節~23節

 クリスマスおめでとうございます。一年の内で一番楽しく、賑やかで、喜びの溢れるこの時を、こうして一緒に過ごすことが出来ますことを心から嬉しく思います。感謝いたします。クリスマスの喜びの中にあって、今年は3名の姉妹方を天にお送りした悲しみがあったことを思い起こしました。改めて、主が悲しみの内にお立ちくださるために世に来られ、救いの御業を成し遂げてくださったことを思い起こしました。

 クリスマスがこんなに嬉しくて、楽しくて、喜ばしいのは、ただお祭り騒ぎをするためではありません。わたくしたちがどうしても経験しなければならない悲しみや苦しみ、痛みのなかに、慰め主であり救い主である主ご自身が共にいてくださるために、天に留まったままでおられるのではなくて地上のわたくしたちの所へと降りて来られたからです。他にないほどの愛がこのクリスマスの出来事にはあるのです。

 クリスマスの物語がそれを十分に示しております。クリスマスの物語をお読みいたしますと、神さまの側から見ればそれは嬉しい出来事、喜びの出来事として見ることが出来るのですけれども、人間の側から見ればポジティブなことよりもむしろネガティブなことが多く語られていることに気がつかされます。ヨセフとマリアは身重の体で長旅を強いられ、しかも、故郷には宿もなく、馬小屋で出産をしなければならなかったこと。それ以前に、ヨセフはまだ結婚していなかったマリアが子を宿したことを受けて、律法による裁きを免れるために密かに離縁しようと決心していたこと。そうしてヨセフが恐れを抱いていたこと。マリアもまた恐れを抱いていました。身に覚えのない妊娠に戸惑いました。救い主の誕生の喜びには、それが誰にとっても喜ばしい出来事であったとか、どんなにか素晴らしい出来事であったかということよりも、むしろ惨めさや恐れ、あるいは迷い、離縁の決意が語られているのです。

 このヨセフについて聖書は「夫ヨセフは正しい人であった」と記しています。ヨセフは律法を守って生きる正しい者でした。ヨセフがマリアと離縁しようとしていたのはまったくもって彼の正しさゆえであったと言えます。それは律法的な意味での正しさということもあるでしょうけれども、人間的な倫理的な正しさを感じさせます。マリアとお腹の子が律法によって裁かれることをなんとかして免れさせようとするそういう人間的な正しさをヨセフは持っていました。つまり律法を破ることもいとわないそういう正しさです。

 誰でも心のどこかで正しい者でありたいという願いを持っているものだと思います。誰も最初から悪者という人はいません。誰でも何とかして、どこか一部分ででもいいから正しさを持っていたいという思いを持っているところがあるだろうと思うのです。それでも、間違いを犯したり、失敗をしたりしてしまうことがあります。面白いことに、正しくありたいと願えば願うほど、自分の正しさを確保しておこうと思えば思うほど、そういう真面目な人ほど、間違いが赦されない、失敗してはいけないと思って一層恐れを抱くことがあります。

 けれども、考えさせられるのです。そういう自分の正しさの中に主はお立ちくださるだろうか。そこに主がお住まいになられる場所はあるだろうか。もし自分が正しくあろうとするゆえに神さまのおられる場所をなくしてしまうとするなら、わたくしたちは本当に救われるのだろうか。むしろ、自分の正しさなんか捨ててしまって、正しい者であろうなどということはもう諦めてしまって、今ここで起こっている出来事をそっくりそのまま「善し」としてくださる方に委ねてしまった方がよいのではないか。それは人の目から見れば間違いだらけに見えるかもしれません。正しい者に見られないかもしれません。でも、そうして委ねて生きる者を善しとし喜んでくださる方と共に生きることの方がどんなにか喜びの内に生きられるだろうか。クリスマスの物語からそんなことを考えさせられるのです。

 正しくあろうとしたヨセフの夢に天使が現われて言います「恐れずマリアを迎え入れなさい」と。ヨセフにとってマリアとそのお腹の子は恐れの根源とも言えるものでした。これまで正しく生きて来た自分の正しさが失われるばかりか、マリアをお腹の子を死なせるかもしれない。ヨセフは正しい者であったが故に、そこで起こった神さまの御業を手放して、何とか正しい道を歩もうとするのです。けれどもそういう恐れに取りつかれていたヨセフに天使は、それをこそ受け入れなさいと告げたのです。マリアもまた同じように自分の正しさや恐れを捨てて、天使のお告げに従いました。「お言葉とおりこの身になりますように」。まったく神さまに委ねたのです。

 この天使のお告げは、ヨセフの考える正しさなど何の問題にもしませんでした。そういう人間的な正しさなどというものは夢のようなものなのです。神さまが共にいてくださるならば、わたくしたちは自分の正しさなどというものを捨ててしまってもいいのです。正しい者であろうとしなくても、神さまがそれをなさっておられることを知り、受け取ることが出来たなら、わたくしたちが、それは正しいことなのか、間違ったことなのか判断しなくても、神さまご自身が善しとしてくださるのです。ただ一方的に御子を遣わし、共にいてくださる神さまと共に生きるならば、わたくしたちは本当の意味での正しさ、あなたが善しとされ喜ばれている者であることを知ることが出来るのです。それがまさに「インマヌエル」「神は我々と共におられる」ということにおいて与えられる大きな赦しの喜びなのです。

 

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