1月6日「救い主はどこにおられるか」

マタイによる福音書2章1節~12節

 新年明けましておめでとうございます。新しい年のはじめにこうしてご一緒に御言葉に耳を傾け祈りをし、神さまの御名を讃えて讃美出来ますことを嬉しく思います。牧師になってからお正月を故郷で過ごすということはなくなりましたけれども、お正月のお便りをいただきまして旧交を温めることが出来ますこともまたお正月の楽しみでもあります。最近ではインターネットでいつでもタイムリーに知人の近況を知ることが出来るようになりましたので、どんなに遠くにいても、外国にいる知人であっても、久しく会っていなくても、なんだかそれほど時間や距離を遠く感じなくなったように思います。

 情報化社会というだけあって、知りたいことは少し調べるだけである程度何でも手に入れることが出来るようになりました。手に入れた情報の適切な処理ということは小学校でも教えられるようになりました。またこちら側の情報を発信するということにおいてもある能力が問われるようになりました。「リテラシー」という言葉がよく聞かれるようになりましたけれども、必要な情報を引き出し適切に処理し用いることが出来るということは大切なことです。

 けれども、一方で思いますのは、信仰に生きるわたくしたちは、単純にその情報が良いものか悪いものかに左右されることなく、たとえそれが自分にとって良くても悪くても、あるいは何の関係もなくても、神さまの御業として受け止めることが出来るかどうかということも大切なことではないかということです。神さまのご支配、その御業を抜きにしたところで溢れかえる情報に埋もれるのではなくて、あらゆる事柄が神さまの御心に適って成されているということを「リテラシー」によってではなく「信仰」によって受け止める時にこそすべてのことが善しとされていることを受け取ることが出来るのだと思うのです。

 今朝の物語にもそれが示されているように思うのです。東の国の占星術の学者たちが空に輝くある星を見つけて、王の誕生を悟ったというのです。その星は彼らにとって新しい王の誕生を告げるものでした。彼らにとってはよい情報でした。それで、新しくお生まれになられた王に会うためにヘロデ王の所に来たわけです。けれどもヘロデ王に子どもが生まれたわけではないことを知ったのです。それで別のところに生まれた王に会いに行きました。

 一方のヘロデ王は心中穏やかではいられません。なにしろ、自分と関係ないところで王が生まれたということを聞かされたからです。王の誕生を告げる星の出現は、ヘロデ王にしてみたら凶兆以外の何ものでもありませんでした。自分の王座が覆されるかもしれない…。ヘロデ王は祭司長や律法学者たちにその子どもがどこに生まれるかを尋ねました。入念に時期を確かめました。その子どもを無き者にしようと考えていたからです。

 わたくしは時々こんなことを思うのです。もしヘロデ王が自分の王座は神さまが下さった恵みなのだということを知っていたら、新しい王の誕生もまた神さまの御心として受け止めることが出来たら、そうすれば、王座を神さまにお返しすることが出来たのではないか…。それが良いことか悪いことかを自分で判断するのではなくて、神さまがそれをなさろうとしておられるなら、神さまのなさろうとしておられることに従おうということが出来たら…、そうしたらヘロデ王は心穏やかにいられたのではないか、そう思うことがあります。でもそうはいきませんでした。

 これは救い主の誕生の物語として特別ではありますけれども、でもヘロデ王の態度を見ておりますと特別な人の特別な物語ということは出来なくなります。神さまの御心を知り、受け取るとはどういうことかを知る大切な物語であると言えます。もし、わたくしたちに特別な何かがあるとしたら、それは神さまの恵みですから、神さまにお委ねして用いて頂けたらよいと思います。たとえ何もなくても、今日という日が与えられていること自体すでに神さまのご計画の内にいることの証しなのですから、やっぱり神さまの御心にお委ねして、神さまの御業がなされることを信じて過ごすことが出来たら良いと思います。けれども、今自分の手の中にあることは自分のものなのだとそういって神さまの御心を脇に置くようなことがあるとしたら、神さまがお働きくださっておられることに背を向けるようなことがあるとしたら、わたくしたちはたちまち平安を失う、このヘロデ王のように自分でなんとかしなければならなくなってしまうのではないかと思うのです。

 博士たちにとってその星は良い知らせを告げるものでした。でもヘロデ王にとってはその星の知らせは悪い知らせでした。わたくしたちもある出来事や事柄や情報を得て、それが良いものか悪いものかを判断することがあります。もちろんそれは大切なことであります。けれども、博士たちもヘロデ王もその星をどのように受け止めていたとしても、この時点では、まだ王の誕生ということしか知りようがなかったということは言えます。でも神さまの側からすれば、神さまの救いのご計画からすれば、このこと自体には良いも悪いもないのです!ご自分の御言葉の成就のため、ご自分の御心の内にご計画なさっておられたことを実現されたのでした。ですから、思いますのは、わたくしたちの目に見えること、心で感じることは、もしかすれば、これから起こる大いなる恵みの序章でしか過ぎない。今ある良いことも、今ある悪いことも、この先に備えられている大いなる救いの完成のはじまりなのだと言えるのです。そのことを知っているならば、わたくしたちはいつでも先に備えられている喜びに希望を持つことが出来ると思うのです。

 2012年を振り返りまして、それが良いものであったか悪いものであったかそういうことを考えます。2013年が良いものになるか悪いものになるか、そういうことを考えたりもいたします。けれども、この世のどんな情報もそれがどうなるかをはっきりと知らせるものはありません。でも、聖書を開いて御言葉に聞く時、わたくしたちはすべてのことが神さまの御心に適って善いものであることを知ることが出来ます。そうして御言葉に聞き続け、主と共に歩む歩みの先には、救い主であるイエスさまがおられることを知ることが出来ます。わたくしたちが行きつくところは平安に満ちあふれた神さまの御国なのです。

 

 

コメントは受け付けていません。

2018年11月
« 8月    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

写真 / 動画のページ (2)
礼拝案内 / 説教集 (77)

WP Cumulus Flash tag cloud by Roy Tanck requires Flash Player 9 or better.