1月27日「幸いです」

マタイによる福音書5章1節~12節

(日付が順不同であることをお詫びいたします。なおこの原稿は福音主義協会連合機関紙2月号記載のものです。)

 イエスさまは、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムを拠点に、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って伝道活動を始められました。それから「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え」られ、「民衆のありとあらゆる病や患いを癒され」ました。その噂はどんどん広がって、シリア中から大勢の群衆がやって来て従うようになりました。この「山上の説教」は、イエスさまがその「群衆を見て、山に登られ」、「腰を下ろされ」て語られたものです。

 不思議に思うのは、イエスさまがガリラヤ中の町や諸会堂で語られたはずの教えが一つも記されていないことです。「悔い改めよ。」と宣べ伝えられたのですから、「罪」についてお語りになられたはずです。罪の自覚がないところでいくら悔い改めを語ってもそれがなかなか届きにくいことはわたくしたちも伝道において経験します。さらに「天の国は近づいた。」と言われたのですから、当時の終末観からしたら、天変地異や飢餓や戦争などのような秩序の崩壊、破滅的な世の終わりが語られたはずです。それでイエスさまは「山に逃げなさい。…上着を取りに帰ってはならない」(マタイ24:3-28)と具体的に教えておられます。

 「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と言えば、すぐに「罪」とか「裁き」とか「終末」とかそういうことが出てきそうなところです。(わたくしたちはすぐにそれをしてしまいます…。)でも、マタイ福音書はそういう順序ではなく最初に「幸い」について書き記しました。それはイエスさまの福音の中心を、罪の自覚とか裁きとか破滅的な世の終わりの備えに見るのではなくて、むしろそれゆえにイエスさま御自身が罪のただ中に来られ幸いを約束してくださったのだ!ということを受け取っていたからなのです。

 イエスさまの教えを聞いた人たちは「いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人」でした。「あなたがたは幸いである」という言葉がそのまま素直に受け入れられるような人たちではありません。むしろ「あなたがたはなんて不幸なんだろうか。苦しんできたんだね。大変だったね。よしよし、わたしが幸せにしてあげよう!」そう言ってもらいたい人たちです。これから幸せにしてもらいたい人たちです。でもイエスさまは、そのような人たちに「あなたがたは幸いだ」と言われたのです。それは「いつかきっと幸せになれるでしょう。」などと曖昧なことではありません。イエスさまの福音は「苦あれば楽あり (楽あれば苦あり)」とは違うのです。「プラマイゼロ」というようなものではないのです。はっきりと「幸い」を告げるものなのです。

 イエスさまの御声を聞く時「あなたは罪人なので裁かれます。」という御声を聞かされるのでしょうか。そして「わたしは罪人だから何とかしなきゃならない。」のでしょうか。そうではありません。「わたしは罪人です。でも神さまが幸いとしてくださいました!」イエスさまの御声の内に響くのは、神さまの愛なのです!救いなのです!幸いなのです!イエスさまは、わたくしたちのこの欠けも破れも弱さも罪も穢れも全部十字架と一緒に背負ってくださったのです。だから、たとえどんなに不相応に見えてもイエスさまの背負われたあの十字架によってこの幸いは確かなものとされているのです。わたくしたちはこれから幸いとされるのではないのです。イエスさまと共に生きる信仰においてすでに幸いとされているのです。

 

 

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