3月17日「山上の変容」

ルカによる福音書9章28節~36節

 イエスさまは、弟子たちにご自分の死の予告をなさって8日目にお祈りのために山に登られました。イエスさまはよくお一人で祈られましたけれども、この時は、ペトロとヨハネとヤコブも一緒に連れて行かれました。

 弟子たちにとってイエスさまの死の予告を聞いた後でしたし「神の国を見るまでは死なない者がいる。」とも聞いた後でした。彼らの中には、イエスさまは既成の国を打倒して新しいイスラエルをお作りになられる王としての救い主と考えていた者がいましたから、困惑していたでしょうし、不安を抱いていただろうと思うのです。

 この「山上の変容」、「主イエスの変貌」などと呼ばれるこの物語は、聖書の中でも特に不思議な物語です。他の奇跡物語とは一線を画しています。わたくしの大変尊敬しているある牧師はこの箇所の説教題を「イエスの正体」と付けておられました。この物語の特異性は、まさしくこの物語において初めてかあるいは唯一と言ってもよい、イエスさまの本当のお姿が記されていることにあるのです。

 わたくしたちがイエスさまのなさった奇跡や、お教えになられたことを見聞きいたします時に、そういう奇跡や教えをこそイエスさまの神の御子であり、救い主である所以だと考えることがあります。けれども、それらはイエスさまのほんの一部分にしか過ぎないのです。にもかかわらず、わたくしたちは祈り、願い、求めにおいて、イエスさまの本当のお姿にではなくて、ほんの一部分にしか過ぎない、奇跡をなさったり、権威ある御言葉をお語りになる部分にこそ救いを求めていることがあるのではないだろうか。

 実は、イエスさまが本当に求めておられることは、そういう奇跡などを願い求めることではなくて、イエスさまが父である神さまの御心に従っておかかりになられたあの十字架において成し遂げられたことを受け取ることなのです。この山上の変容の出来事は、あの十字架の先取りとしてイエスさまの本当のお姿が明らかにされたとっても大切な出来事なのです。

 ですから、わたくしたちが奇跡を望むとして、権威ある御言葉を求めるとして、助けや慰め、励まし、その他あらゆる賜物を願うとして、イエスさまが他でもないこのわたしのために十字架におかかりになられたのだということを受け取ることなし、つまり、イエスさまのこの本当のお姿を知らないでは受け取ることは出来ないのです。

 この出来事に、モーセとエリヤが出てまいります。モーセは「律法」を、エリヤは「預言」を象徴しております。律法は救いを完成させる道具と言えます。預言は神さまがそれをなさると宣言しておられるお言葉です。この二人がイエスさまと共におられたということは、律法と預言を成就するお方がこのお方であるということを示していると言えます。そしてそれは十字架によって成し遂げられるのです。

 弟子たちの姿には、ただ自分が知っている、あるいは知りたいイエスさま。自分が理解した、あるいは理解したいイエスさま。自分が望み、願っているイエスさましか知ろうとしない者の困惑が描き出されているように思います。それは自分が何を言っているのかわからないということです。神さまの視点、十字架の視点からしか本当のイエスさまのお姿、なされた御業、お語りになられた御言葉は知り得ないのです。

 いつでも、十字架のイエスさまを思い起こしながら、わたくしたちの内に働かれる主の御業を見、主の御言葉を聞いてまいりたいのです。

 

 

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