4月21日「わたしを信じる者は死んでも生きる」

ヨハネによる福音書14章1節~14節

 復活節第4主日の朝、お読みいただきましたのは、ラザロという男の死の物語です。ラザロはベタニア出身で、マルタとマリアという姉妹がおりました。ラザロは瀕死の床にありました。それで、マルタとマリアはラザロを愛しておられ、またどんな病をおもお癒しになられるイエスさまに来ていただくために人を遣わしました。けれどもイエスさまはすぐにはお出でにならず、ラザロはほどなく死んでしまいました。

 ラザロが一体どんな人物だったのか聖書には何も記されておりません。その人となり、性格、仕事、何一つ知ることが出来ません。けれども、何一つ知らないこの男のことをわたくしたちは無条件で信頼し、受け入れています。少なくとも律法学者やファリサイ派、祭司長や長老たちと同類として見ていません。それは、ひとえにイエスさまが「ラザロとその姉妹たちを愛しておられた。」(5節)からです。

 またこの物語には、イエスさまがラザロとその姉妹たちとどこで出会い、どのように付き合い、どのように愛され、愛したかということも記されていません。ここで語られているのは、マルタとマリアが「イエスさまあなたはわたくしたちを愛し、ラザロを愛しておられるでしょう。」ということだけです。

 この物語において大切なことは、イエスさまに対するこちら側の態度や関係ではないということです。わたくしたちはイエスさまとの関係において、自分がどのような態度でいるか、どのような関係を築くか、どのように生きるかを気にしていますし、それをもっともよい形にしようと努力します。この物語に一つも記されていないことをいつも気にしています。けれども、この物語において何よりも大切なことは、こちら側がどうかではなくて、イエスさまの方から彼らを愛しておられたということなのです。

 それはわたくしたちも同じなのです。わたくしたちの側から築くイエスさまとの関係は問題ではありません。イエスさまの側から見たら、わたくしたちがそれぞれどんな人間であろうとも、等しく愛すべき存在なのです。ラザロと同じように、マルタとマリアと同じようにわたくしたちも愛されているのです。イエスさまが愛してくださる者は「死んでも生きるのです。」

 キリスト教信仰において、この「死んでも生きる」ということは信仰の中心テーマである、死からのよみがえり、復活ということを意味しています。ですから、このことについて、もっと突っ込んで言えば、少なくともイエスさまに愛されていないキリスト者はどこにもいないということです。そして、このイエスさまの愛こそが「死んでも生きる」命の約束そのものなのです。

 このラザロの死の物語にはイエスさまの愛が示されています。けれども一見手放しで受け入れがたいところがあります。なぜなら、イエスさまが愛するラザロが病であることを知らされながらすぐに向かわずラザロが死んでしまうからです。それだけではありません。ラザロが葬られてから4日も経ってから来られるのです。マルタとマリアはラザロの病について、もう手の施しようがありませんでした。八方塞がりでした。最後の望みの綱がイエスさまでした。一刻も早く来て欲しかったのです。でもイエスさまは来られませんでした。

 イエスさまはわたくしたちにとって最後の頼みの綱なのでしょうか。今問題があるからこそ来て欲しい方なのでしょうか。そうではありません。イエスさまは最後に来られるお方ではなくて、はじめにおられるお方なのです。はじめにおられて、こちら側の態度や状況によらないで、いつでもどこでも共にいてくださってひたすら愛を注いでくださるお方なのです。

 マルタはそのイエスさまの愛に訴えます。直接病を癒してくださいとは願いません。もちろん病の癒しという願いが込められていますけれども、ラザロが死ぬも生きるもイエスさまの愛だけがそれを決定することを信じたのではないでしょうか。一見、姉妹たちの願いは裏切られ、破れたかのように見えます。けれども、苦しみがないから、悲しみがないからイエスさまに愛されていることがわかるのではありませんし、苦しみや悲しみが即座に、こちらの思い通りに取り除かれるからイエスさまの愛がわかるのでもありません。そういうイエスさまの愛を願って聞き入れられるということもあるでしょう。でも、イエスさまの愛はそういう風にしてその時、その場で求めて与えられるものではなくて、もうすでに与えられている、もうすでにその愛の中にあることを信じる者こそ受け取ることの出来るものなのです。

 だからこそ思わされます。やっぱりこちら側の立派な信仰などいらないのだということです。完璧な理解などなくてもよいということです。イエスさまの愛を知り、受け取るのにこちら側には何一つ根拠はないのです。イエスさまの方から共にいてくださって愛してくださるのですからそれで十分なのです。それは時に遅れているように見えます。不在であるかのように感じます。そして、それがわからないのはこちら側の問題だと思うこともあります。けれども、忘れないでいただきたいのです。イエスさまが「わたしは復活であり、命である」とおっしゃられるのです。信仰の根拠はただイエスさまの愛の内にあるのです。そこにわたくしたちの命があるのです。今日与えられたこの命の内にもイエスさまの愛が満ち溢れています。今日、苦しみがあろうと、楽しみがあろうと、イエスさまの愛は変わることなく注がれているのです。イエスさまがおっしゃられる御言葉の内にこそその確かさがあるのです。

 

 

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