5月5日「偽善者のようであってはならない」

マタイによる福音書6章1節~8節

 イエスさまの伝道活動は、町々の会堂で福音を語ることを中心に、病の人を癒したり、悪霊を追い出したりしながらなされました。そうしますと、多くの人たちがイエスさまのところに来るようになり、また従うようになりました。ある時、いつもは会堂で教えをお語りになられるイエスさまが大勢の群衆をご覧になられて小高い山に登られて弟子たちを周りに集めて教えを語られました。「山上の説教」と呼ばれております、今朝お読みいただきましたところです。

 今朝の箇所は、山上の説教の中で語られた教えの一つですけれども、単に独立した教えではなくて、5章からの前半部分のまとめと言うことが出来ます。イエスさまは最初律法について教えられました。「あなたがたも聞いている通り」と話し始められ、「~してはならない」と言われている律法を挙げられました。それから、「しかし、わたしは言っておく」とおっしゃられて、律法を新しく語り直され、新しく受け止める道筋をお示しになられました。

 これは単に「あっちはダメでこっちがイイ」とおっしゃっておられるわけではありません。もし、わたくしたちが、イエスさまが新しく語り直された律法を、これまでの律法と同じように「~してはならない」という風に受け取るとしたら、結局は教えられていることの意味を分かっていないということになるように思うのです。なぜなら、せっかくイエスさまによって古い律法から自由にされたのに今度は新しい律法に縛られるだけになってしまっては意味がないからです。イエスさまもそういうおつもりで、「あっちはダメ。こっちにしなさい。それでこっちを守れなかったらダメですよ。」とおっしゃっておられるのではないと思うのです。

 けれども、わたくしたちはどれほどこういうことを繰り返してきたことだろうかと思うのです。「あれはダメ!」、「これが正しい!」と言っては、ちっとも自由にならないで、あっちの鎖からこっちの鎖につながれ直されているだけ…。結局は、ちっとも律法から自由にならないような御言葉の聞き方をしている。あるいはそういうことを聞かされてきたのではないかと思うのです。わたくしたちはイエスさまが教えてくださる新しい律法によって本当の自由を獲得したいのです。

 新しい律法を教えてくださったイエスさまは山上の説教の前半部分の律法について語ってきたことをまとめるにあたって「偽善者のようになってはならない」と教えられました。

「偽善」というのは、外面的に善良であると偽ることです。似た言葉に「腹黒い」とか「ごますり」などという言葉があります。自分を「偽善者」と思うにしろ、他人を「偽善者」と言うにしろ、そこにあるのは、人間的な、この世的な「善さ」や「正しさ」です。間違ってならないのは「善い」ということ「正しい」ということがいけないということではありません。「善い」こと「正しい」ことは大切なことなのです。けれども、イエスさまの「善さ」、「正しさ」ではなくて、自分の「善さ」や「正しさ」だけを求めるとするならば、それは律法学者たちがしていることと同じことになるのです。それが指摘されています。それはちっとも喜ばしいことではありません。

 イエスさまはわたくしたちが信仰においてさえ偽善的にならざるを得ないほど弱い者であることを十分にご存じなのです。善いお祈りをしよう。正しい信仰生活をしよう。善いキリスト者になろう。正しい聖書の理解をしよう。おわかりいただけるかと思いますけれども、このようなことはわたくしたちがそれを求めて頑張って、努力して、成長して得るものではなくて、ひたすら神さまから与えられていただくものなのです。それは時に、人間的には不十分に見えることがあるかもしれません。ちょうど貧しいやもめが2レプタの献金を献げたようにです。けれども、イエスさまはこのやもめをご自身の喜びとしてくださったのです!

 イエスさまが偽善者のようになってはならないとおっしゃっているのは、わたくしたちが善い者になるためでも、正しい者になるためでもありません。「父である神さまからいただく報い」を受け取るためなのです。人は善においても、正しさにおいても、神さまから遠ざかってしまうことがあるのです。神さまの恵みから人を最も遠ざけるものが偽善なのです。人間的な善さ、人間的な正しさを求め極めようとするところで、人は神さまの恵みから遠ざかってしまうのです。

わたしの善さ、わたしの正しさ、あるいは、わたしの弱さ、罪などというものは、わたしがどうこうしようとしたって限界があるのです。わたしの善さや正しさなんてひとつもあてにならないのです。だから、善くなんかなくても、正しくなんかなくても、弱いままでも、神さまのくださる恵みを受け取ることが出来るなら、神さまの善さの内に、神さまの正しさの内に、神さまの強さの内に生きることが出来るのです。それを受け取ることが大切なのです。神さまの恵みを受けるならば、それこそが善いことであり、正しいことなのです。

 イエスさまは、父である神さまは隠れた所におられて、隠れて見ておられるとおっしゃいます。父である神さまの視線を感じて生きることが大切です。その眼差しは、わたくしたちの罪や弱さや欠けや破れに向けられているのではありません。それは裁きの眼差しではないのです。父である神さまの眼差しは、まったく愛の眼差しであり、慈しみの眼差しであり、また赦しの眼差しなのです。この父である神さまの眼差しを感じて生きる者は、偽善者になるはずはないのです。心の内に弱さがあっても、その人のすることはいつも父である神さまに喜ばれる善いものとして用いられるのです。このような善さ、正しさに生きる者になるよう祈り続け、御言葉に聞き続けてまいりましょう。

 

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