5月12日「復活の証人となる」

ルカによる福音書24章44節~53節

 キリスト者とはどういう人か。色々な表現があるかと思います。キリスト教を信じている人。イエス・キリストを救い主と信じている人。教会に行っている人。聖書を読んでいる人。もう少し詳しく知っている人なら、洗礼を受けている人。などと言うかもしれません。このどれもキリスト者とはどういう人かを言い当てています。けれども、今朝の御言葉からいたしますと、このどれもまだ十分ではないように思えます。

 イエスさまは弟子たちに言いました。「あなたがたはこれらのこと(『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国人々に宣べ伝えられる』)の証人となる。」と。つまり、キリスト者とは「復活の証人」であるということです。復活が全世界に宣べ伝えられる証人だということです。

 「復活の証人」と言われますと、なんだかハードルが高くなったように思われるでしょうか。わたくしたちの誰も、復活の出来事そのものを見たことはありません。そもそも聖書を開いてみてもそこに記されているのは復活の事実だけで、詳細については記されていません。「証人」というのは法廷用語で、実際に経験した事実を法廷で証明、証言(供述、陳述)する人のことを言います。そういう意味で言うならば、復活そのものを見たことがないのに証人たりえるでしょうか。いや、聖書は語っていますし、あるいはわたくしたちは信仰において、復活の命に生きているということを聞きましたし、信じています。ですから経験している、事実がここにあるということも出来るでしょう。けれども、それで本当に証人と言えるのだろうか。

 イエスさまは「わたしについて(旧約聖書に)書いてある事柄は、すべて実現する。」とおっしゃいました。イエスさまの誕生から、伝道活動、十字架の死と復活に至るまですべてを神さまが実現なさいました。続けてイエスさまは弟子たちに聖書を悟らせるためにその目を開かれておっしゃいました「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。」「あなたがたはこれらのことの証人となる。」と。

 復活の証人となるということは、復活を見たことがあるとか、それを詳細に語ることが出来るとか、歴史的事実として証明する(考古学的な証明)とか、そういう仕方で証明して見せることとは違うように思います。復活の証人というのは、聖書に書かれてあるすべてのことが神さまの御業として実現することを知っている者ということです。そして、それを証するのもまた主ご自身であることを知り、委ねている者のことです。主の御言葉にこそその確かさがあるのであってこちら側にあるのではないのです。

 復活されたイエスさまは疑うトマスに言います「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(ヨハネ20:29)。またパウロも言います「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)と。わたくしたちは、すぐに、何とかして自分の何かによって証明しようとか、証ししようと考えます。経験とか、知識とかそういうことで神さまの御業を証明しようとしますけれども、それは神さまの御業なのですから、神さまご自身以外にそれを証明することなど出来るはずもないのではないでしょうか。神さまのなさることを人間が証明しようなどということ自体に無理があるのかもしれません。

 見ないのに信じることは簡単ではありません。見えない事実など確認しようもありません。見て信じる。見える事実を確認する。それが出来るのであれば、おそらく一人残らずキリスト者になるでしょう。でもそうはならないのです。なぜなら、そうであれば人間は神さまなんか信じなくなってしまうからです。結局自分の感覚、見えるということ、経験するということに頼ってしまうからです。それで滅びる肉が復活に至るなどということをどうして信じることが出来るでしょうか。

 わたくしたちは復活の証人として選ばれ、その道を歩んでいます。それはひとえにただ主の恵みによるのです。主の恵みは、神さまが御子イエス・キリストを十字架におかけになられ死にわたされ復活させた。その復活の命にこのわたしを置いてくださっているという事実によってのみ明らかにされます。人間の事実、この世の経験ではなく、神さまの事実の内にその確かさはあるのです。わたくしたちの証しは経験によらず、ただ神さまの内にあるのです。

 イエスさまは弟子たちをベタニアに連れて行かれ、そこで再び天に上げられました。弟子たちはそれを見て大喜びしました。でも、それはその出来事においてではなくて、確かにイエスさまがおっしゃっておられたことがすべて実現したこと、その御言葉の確かさを悟った喜びだったのではないでしょうか。だから、わたくしたちも、わたくしたちの何かによってではなくて、ただひたすら主ご自身の御言葉がすべてを明らかにしてくださる喜びの内に生きるのです。わたくしたちが信仰に生きるというこそそのものによって主の復活は証しされるのです。

 

 

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