7月14日「わたしたちは憐れみの器」

ローマの信徒への手紙9章19節~28節

 パウロの心には深い悲しみがありました。絶え間ない痛みがありました。それは、肉による同胞、つまり、古いイスラエルの民、ユダヤ人たちのことがあったからです。

 イスラエルの民は、神さまに選ばれた民です。神さまの御言葉も、約束も自分たちのものでした。だからこそ、神さまがくださった律法を守って生きることが、神さまの御言葉、約束が成就する道と信じていたのです。いつか救い主が現れて、神さまの王国をお造りくださって、そこに住む。民族を挙げて、歴史を挙げて、その時を待ちつつ律法を守って生きてきたのです。

 けれども、待てど暮らせどその時は来ないのです。彼らは、もしかして神さまはご自分のお言葉をお忘れになられたのだろうか…。約束をお忘れになってしまったのだろうか…。その効力は失われてしまったのだろうか…。そう考えるようになりました。まるで、神さまからの責めを受けているようなそんな苦しみの中にいたのです。

 パウロは、そんなイスラエルの民が抱えている痛みを知っていました。だからパウロ自身も悲しみを抱き、痛みを覚えていたのです。けれども、パウロは知っていました。神さまは約束をお忘れになられたのではなくて、御子イエス・キリストの十字架によって、すでに完成されたのだということを。すべては御言葉通りに成し遂げられたのでした。

 イスラエルの民、ユダヤ人たちにとって、それは受け入れ難いことでした。自分たちが十字架にかけて殺したあのナザレのイエスが救い主であるはずがない。新しいイスラエルなど認められませんでした。けれども、大勢のユダヤ人たちがキリスト教に改宗していきました。パウロにいたっては律法に生きていた頃のことを塵、芥とさえ言いました。それもまたイスラエルの民にとって聞き捨てならないことでありました。

 パウロはこのローマの教会へ宛てて書いた手紙で「では、どういうことになるのか。」「では、~であろうか。」「いや、決してそうではない。」という風に繰り返し語ります。それはそういう者たちの心の声、心の問いを引き出して、丁寧に語り直して、神さまの御言葉を伝えるためでした。神さまは確かに約束を果たされたのだということを伝えるためでした。

 けれども、それに対してまだ憤りを覚えている者たちがいました。そのような人たちに対してパウロは「人よ、神に口答えするとは何者か。」と厳しい口調で語ります。しかし、パウロは神さまの御心と御言葉を信じないで、御業を受け入れない者たちの信仰の有り様を、神さまに代わって責めているのではありません。

 神さまに対するまったき信頼を持って、その御言葉に従って生きるならば、自分の人生、自分の歴史、その他あらゆる自分を形造り、造り上げているものを自分で肯定しようとしなくても、神さまにお委ねした方がよほど自分のことが分かるようになるのです。人間の側に神さまの救いの確かさを確保しておきたいと思う者たちに対して、救いの確かさはまったくもって神さまの側にあることを伝えているのです。

 それで、パウロは造り主である神さまを焼き物師に例えて語りました。自分が何者かを自分で探したり、造り上げるのではなく、自分をお造りくださった方を知る方が大切なのです。神さまはわたくしたちを至らない者、足りない者としてお造りになられたのではありません。ご自分の恵みを注ぎ、憐れみで満たす器としてお造りくださったのです。わたくしたちは神さまの恵みと憐れみを満たす器としてその中を空っぽにしておかなければなりません。自分を空しくして、その内側を神さまによって恵みで満たしてもらうのです。

 神さまはすべてのものをお造りになられ、そのすべてを良い物としてわたくしたちにくださるのです。わたくしたちはその良い物を入れる器として造られたのです。だからこそ、わたくしたちの内からはいつでも神さまの恵みがあふれ出てくるのです。人間的なものによってではなく、お造りになられた神さまの御手の業によってなされるのです。

 

 

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