7月28日「悔い改めた者‐サウロ‐」

使徒言行録9章26節~31節

 使徒であり異邦人伝道の第一人者であるパウロは、回心する前はサウロという名前でした。サウロはユダヤ人であり、熱狂的な律法主義者でした。それゆえ彼のキリスト者に対する迫害は激烈ともいえるものでした。男女問わず脅迫し、捕え、縛り上げて、エルサレムへ連行し、尋問して死刑判決を与えたのです。どれほどのキリスト者が彼の手によって死刑へと向かわされたかわかりません。言うなれば彼は大量殺人の手引きをしたのです。

 そのサウロが回心したのです。どんな信仰的な大義名分があろうとも、大勢の人を死へと追いやったことは赦されるものではありません。サウロは自分がまるで神のようになってその正義を振りかざして神さまに敵対していたのです。そのサウロが回心したのです。しかも、迫害していた信仰へと回心したのです。それはサウロの人生が、これまでの生き方の正反対の方向へ転換したということです。真逆へと裏返ったのです。

 回心というのはそういうものだと思います。単に考えが変わったとか、信じるものが変わったというものではありません。考えが変わったからと言って生き方が変わらない人もいるでしょう。信じるものが変わったからと言って自分の存在自体が変わらない人もいるでしょう。しかし、本当の回心というのは、生き方がぐるりと変わるのです。自分の存在自体が変わるのです。それは、人間の知恵や経験、その他どんな人間的な力でも起こり得ないものです。たとえそれが劇的なものであれ静的なものであれ、回心はまったく神さまの御業としてなされるのです。

 回心において神さまがなしてくださる御業は「赦し」です。回心は裁きの恐ろしさによって起こるのではないのです。律法主義者たちの生き方、これまでのサウロの生き方はまさに裁きの恐ろしさによって保たれていたと言えるでしょう。けれども、回心はそうではなくて、人間的に見ればとても赦されるものではないほどの罪が赦されることによって起こるのです。イエスさまの十字架の御業がすべての人の罪の赦しであったように、イエスさまを救い主と信じて信仰に生きる者は、その赦しの中に生きることになるのです。この赦しの中に生きるようになることが回心なのです。

 神さまはキリスト者を迫害するサウロに言います「サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」と。神さまを迫害すること以上の罪はないでしょう。そう考えますと、わたくしたちが日々犯す罪などちっぽけに思えます。サウロがやってきたことを考えますと、神さまの赦しの中に入れられない人などいないことがよくわかります。キリスト者を迫害し、神さまを迫害し、人を死に追いやるほどの罪を犯したサウロでさえも赦されて回心するのです。信仰に生きているわたくしたちは、そういう神さまの赦しを受け取っているのです。もちろん、悔い改めをしなくてもいいということではありません。もう罪なんか犯さなくなったということではありません。でも、罪を犯さないように、悔い改めが少なくて済むように考える信仰よりも、自分は罪を犯してしまう、悔い改め続けなければならないことを認めながら、しかし、神さまのまったき赦しを信じて、イエスさまの十字架を信じて生きる方がよほど神さまの御心にかなった生き方と言えるのです。

 サウロの回心のために神さまがなさったことが、彼の目を見えなくするものであったことは注目すべきところであろうと思います。サウロは三日も飲み食いが出来ませんでした。目が見えなくなることによって自分の命を保つための食事をすることが出来なくなったのです。「人はパンだけで生きるのではない。神さまの御言葉によって生きる」というイエスさまの御言葉を思い起こします。目が見えなくなって、自分の命と向き合わなければならなくなって、食事によってではなく、あるいは自分の生きがいによってではなく、知恵や経験やその他人間的な何かによってではなく、ただ神さまの御手の業によって生かされていることを覚えたのです。

 エルサレムにいた弟子たちの何人かは、こうして回心したサウロをはじめは受け入れることが出来ませんでした。それはよくわかります。けれども、この時弟子たちが見ていたのは、サウロのことであって、その背後に働いておられる神さまのことではありませんでした。神さまに出来ないことはないということを信じることが出来ていれば、悔い改めたサウロを受け入れることが出来たはずです。弟子たちの中には、そうしてサウロを受け入れた者たちもいました。神さまの赦しにとって人間の罪の大小など問題ではないのです。問題は、神さまの赦しによって、あなたの存在自体がすでに変えられていることを受け取るかどうかです。自分に頼る生き方から、神さまを信じる生き方へと転換するかどうかです。

 今朝わたくしたちは改めて神さまの赦しの寛容さ、寛大さを知りました。悔い改めにふさわしい者などないと同時に、誰もが神さまの御業によって赦されており回心させられるのです。神さまがわたくしたちを造り変えてくださいます。赦された者として愛と慈しみの内に置いてくださっています。今日この時から、すべてが神さまによって赦され、恵みとして備えられていることを信じて信仰の道を歩み始めたいと思います。

 

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