9月15日「神さまに愛されている子ども」

エフェソの信徒への手紙4章25節~5章5節

 神さまはわたくしたちをご自分の愛する子どもとしてくださいました。わたくしたちは老若男女を問わず神さまの御前に子どもとされたのです。

 神さまの子どもとして生きるということは、今朝のところの見出しにもありますように「新しい生き方」を生きることです。なぜなら、これまでの経験や知恵や、蓄えてきたあらゆる財産に頼るのではなくて、父である神さまに頼って生きることだからです。それが「神に倣う者」と言われています。

 子どもは育てた親、育った環境、その周りのあらゆるものをよく見て、感じています。皆さんも聞いたり、言ったりしたことがあるかと思いますけれども「親の顔が見てみたい」なんて言葉があります。これは子どもの言動に呆れて使われる言葉ですけれども、つまり、その子どもの問題は子ども自身の問題ではなく親の問題だということがその背後にあります。

 わたくしたちキリスト者もある意味ではないでしょうか。悪い意味ではありませんけれども、信仰に生きるわたくしたちを見た人が、「親の顔が見てみたい」と神さまを知りたいと思うかどうか…。わたくしたちの背後におられる神さまがわたくしたちを通して見えるかどうか。

 わたくしは伝道とか信仰の継承ということを考えます時に思い起こす歌があります。「蛍こい」という歌に「こっちの水は甘いぞ」という歌詞があります。これはもともと仏様のくださる水らしいのですけれども、わたくしたちの信仰の生き様が辛く、苦しいものであるならば誰もその水を飲みたいとは思わないでしょう。どんなに苦しくても、辛くても、神さまの愛と恵みを信じて、希望を持って、慰めと赦しを受けて生きる生き様の背後に神さまが見えていたら、その水を飲みたいと思わせることが出来ると思うのです。

 今朝のところにはいわゆる悪徳について記されているところがありました。「偽りを捨てなさい」「日が暮れるまで怒ったままでいるな」「悪い言葉を口にするな」「みだらなこと汚れたこと貪欲を捨てなさい」こんなことが記されております。

 こんなことばかり考えて生きなければならないとしたら、なんてしんどい生き方だろうか…。わたくしたちの日常のことを考えれば全部守るなんてことはなかなか難しいことかもしれません。けれども、子どもを見てください。偽りなんてありません。一日中怒ったままなんてことはありません。悪いことなんか言いません。そんな子どもを見ると天使のように見えるでしょう。自分で何も出来なくても、手間ばかりかかるけれども、それでもそういう子どもこそ天使のように見えるでしょう。神さまに愛されている子どもであるわたくしたちは、神さまに全く頼って生きる時、このことが出来るようになるのです。

 これらの悪徳はなんとかして回避しなければならない掟であり、ダメ!だということではないと思います。子どもを育てる時に、ダメ!ダメ!で育てますと、自信を失ったり、孤独になったり、希望を抱けなくなります。たとえ間違いを犯しても、そこに何か積極的な意味を見出して導いてあげたら、子どもは悔い改めつつ、自分を肯定することが出来るようになって、希望を失うことなく前進して行くことが出来るようになるのです。神さまもわたくしたちをそういう風にして、あれはダメ、これはダメ、お前さんはいつもこんな間違いを犯してばかりで…。なんて言ってお育てくださるのではありません。いつでも愛と赦しと恵みを注いで、いつでもそこで恵みの賜物をご用意くださって、希望を失うことのないようにしてお育てくださるのです。

 わたくしたちも、神さまのひとり子であるイエスさまがその苦難の道を喜んで歩まれて、神さまの愛をまっとうされたように、父である神さまの愛を信じて、信仰の道のりを喜んで歩んでまいりましょう。神さまの愛がありますから恐れずにわたしを神さまの御前に献げましょう。わたくしたちは神さまの子どもです。神さまは子どもであるわたくしたちを愛して愛してやまないお方なのです。

 

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