9月29日「信仰によって」

ヘブライ人への手紙11章17節~22節

 お読みいただきましたところには「信仰」という見出しが付けられております。お読みいただきますとお分かりいただけますのは、そのほとんどの文章が「信仰によって」と書き始められていることです。そうして記されていることは、旧約聖書に出てくる人たちの生き方についてです。「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」つまり神さまがその人たちの人生をお認めになられたということが紹介されているのです。

 わたくしたちも様々な場面で、この「信仰によって」が問われます。日曜日に礼拝に来るか、他の用事をするか。とか、キリスト者であることを公にするかしないか。とか。けれども、大切なことは、わたしがちゃんと信仰の選択を成し得たかどうかではないように思います。自分がちゃんと信仰の選択が出来たかどうかよりももっと大切なことは、神さまご自身がわたくしたちの人生の選択を「信仰によって」お導き下さることを信じることが大切なのです。成功とか失敗とか、正しいとか間違いとか、そういうことは心配する必要はありません。人間が決めた枠を判断基準にするのではなくて、そこに確かに神さまがおられてお導き下さっていることを信じることこそが「信仰によって」ということの最も大切な事なのです。

 今朝のところにはアブラハムとイサクのことが記されております。これは親が子を殺そうとする物語です。到底赦されることではないことを神さまはアブラハムに求めるのです。もしここで神さまの求めておられることではなくて人間の判断基準を持ち込むならば、いくら神さまが求めておられるからといって子を殺すなどということはあってはならないことになるでしょう。しかし、神さまの求めておられることをそのまま成そうとしたアブラハムの信仰をご覧になられて、神さまはアブラハムにそれをさせないようにしてくださいました。

 信仰とは何かについて1節に記されております。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」この「信仰」の主語は「わたし」ではありません。「アブラハム」でも「イサク」でもありません。あなたでもわたしでもありません。ただお一人「神さま」が信仰の文脈においては主語たるお方なのです。ですからここにある「信仰によって」という文章はどれも、その主語は「神さま」なのです。だから「アブラハムの信仰によって」とは記されないで「信仰によって、アブラハムは」と記されるのです。アブラハム自身の持っている信仰ではなくて、神さまがアブラハムにお与えになられた信仰なのです。

 だからこそ「望んでいる事柄」というのは「わたしの望んでいる事柄」ではなくて「神さまが望んでいる事柄」であり、「見えない事実」というのは、「わたしが見ることが出来ない事実」ではなく「神さまがご覧になられている事実」ということなのです。神さんが望んでおられるのですから神さまが成してくださるのです。神さまがご覧になられているのですから、それは神さまの真実なのです。

 信仰に生きることによって、わたしの望みなんかよりも、神さまの望みの方がよっぽど確かで、わたしが見ていることよりも、神さまがご覧になられていることの方がよっぽど真実であることを知ることが出来るでしょう。それもまた、神さまがわたくしたちにお与えくださった「信仰によって」神さまご自身が、確かに成され、ご覧になられている事実において恵みを明らかにしてくださるでしょう。神さまが、神さまご自身によってお与えくださった信仰によってわたくしたちをお認めくださるのです。

 

 

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