1月22日「よろしい清くなれ」

マルコ福音書1章40節~45節

イエスさまは伝道活動において「会堂で教えを語ること」、「悪霊を追い出すこと」、「病気の人を癒すこと」これを三本柱としていました。この物語は単に「病気の人を癒す」物語ではなくて、律法との関係についても語られている物語なのです。信仰と律法の関係は今でもわたくしたちにとってとても難しい課題があります。

イエスさまが伝道されていた当時、律法は生活のあらゆることを規定していました。病気もまた律法との関係で考えられていました。律法を守って正しく生きていれば恵みをいただけて、律法を破って罪を犯せば病気のような悪いことが起こると考えられていたのです。

これは現代に生きるわたくしたちにとって関係のない話ではありません。例えば、健康について考えて見ますと、健康に良いと言われることをしているかいないか、日常生活の習慣や食事など、良いことをしているかしていないかで病気になるかならないかを、半ば強迫観念的に考えている人がいたりします。律法主義的な考え方に似ています。

イエスさまの所に来た重い皮膚病を患っている人は「御心ならば、わたしを清くすることがお出来になります。」と言いました。「治す」のではなく「清くする」と言っているのは、病気の患部が治るという意味ではなくて、病気を引き起こしている罪を清めてもらえれば病気が治ると考えていたからです。

イエスさまはこの人を深く憐れまれました。それは、病気によって苦しい生活を強いられてきたことへの同情ではありません。律法に縛られていることへの憐れみです。イエスさまはこの人に触れて病気を癒されました。「よろしい。清くなれ」というお言葉は病気を治すお言葉ではなくて、律法的な汚れを清められるためのお言葉です。それから、誰にも話さずに祭司に清めの証しをしてもらいなさい。律法的な汚れが清められたのだから、ちゃんと律法の手続きを経て清められたことを証ししなさい。と言われたのです。

この人はそれをしませんでした。せっかく律法的な汚れを清めていただいたのに、すぐさま律法の手続きをせずに律法違反をしてしまったのです。イエスさまのお言葉を無駄にしたと言えます。これが律法の問題です。先ほど健康のことをいいました。何か良いことを1つしたからといって5つ悪いことをしていて意味があるでしょうか。悪いことを5つやめたとして、良いことを1つもしなかったら意味があるでしょうか。1つやるなら全部やらなければならないのです。1つやめたなら全部やめなければならないのです。

信仰において大切なことは、律法的な意味でどれだけ良いことをするかというところにはありません。ただイエスさまだけがわたしを清めることがお出来になる方であるということを信じて生きることが大切なのです。イエスさまのお言葉に従って生きる時、良いことも悪いことも、すべて神さまの御腕の業であることが分かるようになります。わたしが良い人間になるかならないか、良いことをするかしないかではなく、そういう律法主義的な生き方から自由になって、ただ恵みの内に生きることが出来るようになるのです。

 

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