1月29日「あなたの罪は赦される」

マルコ福音書2章1節~12節

イエスさまが伝道を始められてから数日の内にどれほどの人がイエスさまのうわさを耳にしたでしょうか。ガリラヤをぐるりと巡ってカファルナウムに戻って来た時、イエスさまがおられた家には人が溢れかえって家を取り囲むほどだったようですから、ものすごい勢いでうわさは広まっていったのだろうと思います。

イエスさまの所に集まって来ていた人たちが望んでいたことは何だったのでしょうか。野次馬根性でうわさの真相をこの目で見ようと思っていた人もいたでしょう。もっと切実な思いで、悪霊に取りつかれた人、病気の人を連れて来た人もいたでしょう。誰もが何か心の内に求めるものがあって集まって来ていたことには違いはないと思うのです。

その中に並々ならない思いで来た人たちがいました。中風の人を床ごと担いで来ていた人たちがいたのです。それだけではありません。イエスさまがおられる家の状況を見て、その家の屋根に登って屋根をはがして床ごと病気の人をイエスさまの目の前に吊り降ろしたのです。あまりにも非常識な行動です。他人の家を壊したばかりではなく、家の中で何かをなさっていたであろうイエスさまの妨げにもなったはずです。

わたくしたちならどうするでしょうか。きっとお利口さんに順番を待つでしょう。どんな時でもある程度は常識的であろうとするでしょう。他人のものを壊したり、誰かの邪魔をするなんてもってのほかだと思うでしょう。けれども、そこにイエスさまがおられることを知っていながら、他の人に遠慮して、常識的であろうとして、お利口さんになることに何の意味があるでしょうか。イエスさまが望んでおられることは、そういうお利口さん、常識人ではありません。非常識であろうとも自分の懐に飛び込んで来ることです。

イエスさまは彼らの行動を見て、病気の人に「あなたの罪は赦される」と言われました。「赦された」ではなく「赦される」と言われたのです。即座に赦しが起こるのではなく、これから起こると言われたのには意味がありました。そこにやましい気持ちを持った律法学者たちがいたからです。律法学者たちは言うなれば当時のどんな人よりも常識的な人たちでした。彼らは罪を赦すことが出来るのは神のみだと心の中で考えていたのです。その通りです。けれども、そのあまりの常識的な考えではイエスさまこそが神さまの御子であり救い主であることが分からなかったのです。それゆえにイエスさまが神を冒涜していると思ったのです。

ここにすでにイエスさまの伝道と十字架の歩みにおける律法との決着があるように思います。律法によって人は常識的な人間になれたとしても、救いを受けることは出来ないということです。律法をどれほど守っても救われた者として生きる道は開かれないのです。イエスさまは十字架によって全ての人を救う御業を成し遂げられました。だから、ここでは「赦される」なのではないでしょうか。律法から自由になって、イエスさまの十字架を仰いで生きるようになってはじめてわたくしたちは救われた者として生きる道を歩み始めるのです。

 

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