2月5日「わたしに従いなさい2」

マルコ福音書2章13節~17節

イエスさまが最初に弟子にされたのは2組のガリラヤ湖の漁師兄弟でした。イエスさまは彼らに「人間をとる漁師にしよう」と言われました。これは、普通の漁師ではない何か特別な存在にするという意味ではなくて、これまで自分の生活のため、命のために働いてきたことが、神さまを証しし、神さまの恵みを人に分け与える存在になるという意味でした。

イエスさまに従って弟子になるということは、何か特別な存在になることではなくて、これまで通りに生きていたわたしがそのままの姿で、神さまを証しし、神さまの恵みを人に分け与え、そうして神さまの御業のために用いられるようになるということです。それをなさるのは神さまなのです。ですから、漁師は人間をとる漁師に、大工は人間をとる大工になるのです。主婦なら人間をとる主婦に、学生なら人間をとる学生に、サラリーマンなら人間をとるサラリーマンになるのです。誰もが特別な人間をとる漁師になるのではないのです。

イエスさまは5人目の弟子として徴税人アルファイの子レビをお選びになられました。徴税人というのは誰からも忌み嫌われる存在でした。罪人のレッテルさえ貼られた存在でした。なぜなら、ローマの権力を傘に100円の税金を150円徴収して私腹を肥やしていたからです。人を食いものにして誰からも嫌われている徴税人を弟子にするということは考えられないことでした。

わたくしたちも、誰かを教会に招く時、あるいは自分がキリスト者であることを明らかにするとき、この人になら話せる。この人なら教会に招ける。でもこの人にはちょっと話せない…。この人は招けない…。なんて品定めをするように人を見ることがないでしょうか。イエスさまはそういうことはなさいません。どんな人をもお招きになられ、弟子にしてくださるのです。徴税人でさえも弟子になさるのですからなおさらです。

イエスさまは言います「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と。わたくしが学生の頃大変お世話になったある牧師はいつも説教で「キリスト者が聖人君子ばかりになったら困る」と語られました。赦されたい、清められたいと願って教会に足を踏み入れた人に、聖人君子の集まりのような教会が、ここは自分の来るところではないと感じさせてしまったらそれはイエスさまの望んでおられることに反することになります。わたくしたちが聖人君子になるのではないのです。わたくしたちはあくまでも罪人の集まりです。そのわたくしたちを赦し、清めてくださった方を証しするのがキリスト者なのです。

律法学者たちというのはそういう意味では聖人君子でした。お利口さんで、清く正しい人たちでした。罪人とは関わらないのです。もちろん自分も罪を犯さないですし、罪など無いとさえ思っていたでしょう。けれども、そういう律法学者たちは、赦し、清めてくださる神さまを証しすることはありませんでした。罪人を招くことなどありませんでした。徴税人たちと食事をしたイエスさまとは真逆です。時に、人間の清さ、正しさは神さまのお心とは真逆の方向にあるのです。だから、わたくしたちは人間的な清さ、正しさを求めたりしません。わたくしたちを赦し、清めてくださるイエスさまの招きに応えて、イエスさまと一緒に生きて生きたいのです。

教会は、イエスさまに招かれた罪人の集まりです。イエスさまによって赦され、清められた罪人だらけの場所です。けれども、ここには本当の安らぎがあります。とってつけたようなお利口さんになんかなる必要がないからです。イエスさまが「いらっしゃい」と声をかけてくださっています。本当の自分、そのままの自分でいられるこの場所に、あなたも招かれているのです。

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