6月18日 説教要旨「人の企みの愚かさ」

マルコ6章14節~29節

今日は「人の企み(たくらみ)の愚かさ」という説教題にしましたけれども、「企て(くわだて)」にしたら良かったかなと思いながら説教作成をいたしました。「人がはかりごとをすること」という意味で同じですけれども、企ての方が具体的な行動という意味があるかと思いました。

 最初にお話ししておきたいことは、人が何かしらを企むことはどんなことでも愚かなことだと言いたいのではないということです。神さまの目から見れば、人間の企てはすべて愚かでしょうけれども、しかし、神さまはそういう人の愚かさの内にも働かれるお方なのです。時には、人の愚かさを御業として成されるお方なのです。

 ただ気を付けなければならないのは、人の企てが愚かであっても神さまは働かれるのだからといって、なんでもかんでも企てをしても良いということではなくて、神さまの御旨がなされることをよくよく考えて企てをしたほうが善いということです。もちろん、わたくしたちは神さまの御旨のすべてを知り尽くすことは出来ません。これでいいのだろうかといつも心配しながら歩んで行くものです。神さまの御旨にかなった歩みをしようとしてもなかなか難しいものです。

 いずれにしても、大切なことは、神さまを信じて前進し続けるということです。前進というのはただ時間の流れに、あるいは時代の流れに流されることではありません。神さまが喜ばれるであろう方向へ自らの足を踏み出すことです。そこが嵐の中でも、荒れ野でも、流れに逆らうことになったとしても勇気を持って自分の足で前に進んで行くことです。この勇気は、自分の決意や覚悟、熱意とは違います。わたくしたちの勇気の源は、神さまが下さる希望であり、恵みであり、励ましであり、慰めなのです。

 イエスさまは、洗礼者ヨハネが殺されたことを知って、自分の時が来られたことを知って伝道活動を開始されました。洗礼者ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けるということだけでなくて、ヘロデ王の愚かさによって、人間の企てによって殺されることによっても、イエスさまの十字架の道備えをしたのです。ここに神さまの御旨がありました。イエスさまはそうして十字架の道を歩み始められたのです。

 ヘロデ王は「王」とはいえローマの支配下にある地方領主でした。「国」もローマからすれば一つの領地にすぎませんでした。それでもヘロデ王は自分の好き勝手に出来るほど権力を振るっていたわけです。そうして、自分の兄弟フィリポの妻を自分の妻にしたのです。洗礼者ヨハネが殺されたのは、このことを面と向かって批判したからでした。ただ面白いことにヘロデ王はヨハネを嫌ってはいませんでした。ヨハネを嫌っていたのは妻ヘロディアでした。

 ヘロディアはヘロデ王との結婚を批判したヨハネを亡き者にしようと企んでいました。そのチャンスがヘロデ王の誕生日の時に訪れました。娘の踊りに喜んだヘロデ王が褒美を与えようとしましたら娘は母と共謀してヨハネの首を望んだのでした。そうしてヨハネは殺されたのです。これほどの愚かな企てはありません。神さまの御旨に程遠いようい思えます。けれどもここに神さまのご計画の成就がありました。神さまはどんなことも御旨にかなったこととして用いることが出来ます。そして、それが救いに繋がりさえするのです。それはただ信仰によって知ることが出来るのです。

 イエスさまがヨハネの死をきっかけに十字架の道を歩まれたように。行く手に困難や苦しみが待っている道であったとしても、わたくしたちは神さまを信じて、そこに御旨がなされることを信じて、信仰の道を歩んでまいりたいと思うのです。

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