6月25日 「すべての人が満腹した」

マルコ6章30節~44節

 イエスさまの伝道活動は「福音を語る」ことと、「病人の癒し」と「悪霊払い」が中心でした。他にも律法論争をしたりしました。こういった物語は「説教」、「奇跡物語」、「論争物語」などという風に分類されます。さらに「奇跡物語」は「治癒奇跡物語」、「悪霊払い物語」、「その他の奇跡物語」という風に分類されます。今朝お読みいただきました「五千人の給食」の物語も「奇跡物語」です。

 この五千人の給食の出来事は、他のどの奇跡物語にも増して不思議な出来事を記しています。ここには神さまの真理が隠されています。「秘儀」や「奥義」などともいわれますけれども、すぐに知ることは出来ません。そういう意味で言えば、どんな聖書の説き明かしも神さまからすれば当たらずとも遠からずといった感じでど真ん中ということはないかもしれません。この物語を読みますといつもとても難しいなぁと思わされます。

 イエスさまが十二弟子を伝道に派遣され、それから弟子たちが帰って来た時の出来事です。イエスさまは伝道から帰って来た弟子たちを労ってひと時休息を与えようとされました。けれども、人里離れたところまで退いたのに、そこに大勢の人たちが先回りしていたのでした。イエスさまはその人たちを憐れまれて教えを語られました。もう夕方になろうとするころ弟子たちが言いました。「そろそろ解散させましょう」と。するとイエスさまは「あなたたちが食事を与えなさい。」と言われました。本当は休むはずだった弟子たちからすれば「えぇぇ…。マジっすか…。」という感じであったのではないでしょうか。

 こうして五つのパンと二匹の魚で五千人以上もの人達が満腹するほど食事をしたのでした。イエスさまがそれを分けられ、弟子たちがそれを配ったのでした。どうしてこんなにも不思議な、ある意味では突拍子もない出来事が残されたのでしょうか。この物語に隠された神さまの真理とは何なのでしょうか。

 「パン」と「魚」というキーワードを手繰ると、イエスさまが荒れ野で受けた誘惑を思い起こします。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。また、イエスさまは「わたしは命のパンである」とも言われました。きっとイエスさまならパンが1個であろうと5個であろうと、なんならパンが1つもなかったとしてもすべての人を満腹させることが出来たでしょう。問題はパンの数ではありません。こうしてパンを分け与えることが出来るお方こそが真の命のパンであるお方だということです。食べ物のパンに勝る方はこのお方しかおられないということです。

 また「魚」から思い起こすのは弟子の選びの時「わたしに従いなさい。人間をとる漁師にしよう」と言って招かれたことです。また、復活の後、魚がとれなかった弟子のところに来て「舟の右に網をうちなさい」と言われると網が破れんばかりに魚がとれたことがありました。魚は神さまの収穫の喜びの象徴と言えます。種まき人のたとえにもあるように、その収穫は百倍以上にもなるのです。それがたった二匹の魚を五千人以上もの人たちに分け与えることが出来たことに象徴されているといえます。

 この物語は単にイエスさまの力を証明する物語ではありません。イエスさまがとてつもない奇跡を起こすことが出来ることを証明するものがたりではありません。この物語、この出来事は、今ここにこうして教会が立ち、わたくしたちがキリスト者として歩んでいることにつながっています。この方を命のパンとし、この方によって救われたわたくしたち一人一人に深く関わる出来事が記された物語なのです。そういう神さまの収穫の喜びの物語なのです。

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