7月9日 「神の掟、人間の言い伝え」

マルコ7章1節~13節

 「信仰に生きる」というのは「神さまを信じて生きる」ということです。「神さまを信じる」ということは「イエスさまの十字架が救いの御業である」ことを信じることです。そうして「救われた者として生きる」ことが「信仰に生きる」ということになるのです。

 わたしは、イエスさまの十字架の命と引き換えに救われたのだということを信じるなら、熱心に聖書を読むとか、熱心に祈るとか、たくさん奉仕するとか、献金するとかそういうことはひとつも気にすることはないと思っています。しなくてもよいとは言いませんけれども、自分で神さまと向き合って出来ることをしたらよいと思います。

 神さまは「わたしが望んでいるのは、焼き尽くす献げものでも、いけにえでもない」と言われます。神さまは、わたくしたちが持っている何かを欲しておられるのではありません。わたくしたち自身を求めておられるのです。ですから、大切なことは、わたくしたちが持っている何かをどれだけ献げるかではなくて、わたし自身を神さまの御前に献げているかということなのです。

 しかしこれがなかなかに難しいのです。神さまの御前にわたし自身を献げるとはどういうことでしょうか。このことについて大切なことは「わたしの実存の所在」ではないかと思います。たとえば、わたくしたちはお金を献げます。もし、お金をわたしと同等のものか、あるいは、自分の身代わりのようにして献げるとしたら、神さまはそれをお喜びになられるでしょうか。お金を献げる時、その額を気にしているとしたら、それはわたし自身を献げているのではなくて、やっぱりわたしの持っているものを献げているに過ぎないということになりかねないのではないかと思うのです。

 わたくしたちは神さまに造られた者です。わたくしたちの持っているあらゆるものは神さまから頂いたものです。わたしも、わたしの周りにあるあらゆるものもすべて神さまのものなのです。わたくしたちが献げるものは、わたしの持っている何かではなくて、そもそも神さまのものなのです。わたし自身を神さまに献げるということは、わたしの持っている何かを献げることではなくて、わたし自身を献げることなのです。つまり、ただひたすら信仰に生き続けるということ以外にないのです。

 今朝お読みいただきましたところでなされている議論は「食物規定」に関することです。イエスさまと弟子たちが食事の時に手を洗わなかったことを律法学者やファリサイ派の人たちがわざわざやって来て指摘したというのです。実はここでの議論の中心にあるのは食べ物のことではなくて献げものについてです。そして、献げものにおいて何を献げているかということが議論されているのです。つまり、あなた自身を献げているのか、それともあなたの持っている何かを献げているかということです。

 そのたとえとして「コルバン」が挙げられております。これは何でも「コルバン」と言えば神さまへの献げものということで父母を敬うために財産を使うことさえも拒否することが出来るというように、私財を守ることに悪用されていました。もともとは神さまが定めた掟であった「コルバン」を自分のために用いるようになっていたのです。ちっとも自分を神さまに献げていないことをイエスさまは指摘したのです。わたくしたちは自分の持っている何かを献げる時すぐにこれは良い、これは悪いと線を引きたくなります。これはこれだけ献げようと考える時、反対に、これはこれだけ自分で持っていようとも思うのです。

 わたくしたちは、神さまによって造られ、守られ、支えられています。すべては神さまのものなのです。わたくしたちが献げるものはすべて神さまにお返しするだけなのです。この命でさえもただ神さまに返すだけなのです。このことが分かる時、わたくしたちは何の心配もしないで、本当に心の底から喜びと感謝をもって献げものをすることが出来るのです。わたし自身を惜しむことなく神さまに献げることが出来るのです。

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