7月16日 「腹にあるもの、心にあるもの」

マルコ7章14節~23節

 「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものはなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」「人の汚れとは何か」、「人の汚れはどこから来るのか」何やら哲学的な問いのようなイエスさまのお言葉です。

 これはイエスさまが律法学者とファリサイ派の人たちと「食物規定」をめぐる論争をした後で言われたお言葉です。この論争の内容は食べ物に関することというよりは「神からの掟と人の言い伝え」のどちらを重んじるべきかという信仰の根幹に関わるものでした。イエスさまはこの論争で、神さまというお方は、掟を与えて人がそれを守るか守らないかを問うお方ではなくて、掟を与えられた神さまご自身がそれに従い得ない人の赦しと救い、正しさ、清さの基になられるお方であることを明らかにされたのでした。人の言い伝えは、それがどれほど正しいものであったとしても、それによって神さまの正しさには及ばないものであり、人は自分の正しさ、清さによって赦しも救いも得られないのだということを明らかにされたのでした。

 そうしてここで「人の汚れ」について語られたのが今朝お読みいただきましたみ言葉なのです。弟子たちは食物規定をめぐる論争の意味を理解していなかった故にこのイエスさまのお言葉の意味をも理解することが出来ませんでした。それでイエスさまは続けて言われました。「すべて人の体に入るものは、人を汚すことは出来ない…。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」と。さらに「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。」と言われました。

 まるで「性悪説」です。これは人間の性は悪であると中国の思想家(荀子)が唱えたものです。これに対して「性善説(孟子)」というのがあります。イエスさまは、人の根本は悪であるとみなしておられるのでしょうか。一見そういう風にも見えますけれども、はっきりと言います。それは違います。イエスさまは「人の根本は悪だ」と言っておられるのではありません。人にはそういう弱さがあることを認めておられることは確かです。けれども、それゆえに、人に与えられている神さまの愛と憐れみがどれほど大きいか、深いかということを示しておられるのです。

 人の中には汚れたものがあるけれども、しかしその中から善いものが出てくるようになるのです。それは、その心の中に神さまが聖霊を遣わしてお住まいくださる時です。それは、その人の正しさや清さとは関係ありません。ただひたすらに神さまの正しさ、神さまの清さ、神さまの愛と憐れみに関わることなのです。もしわたくしたちが、善いことをしたなら、それは心の中にお住まいくださる神さまの御業なのです。もしわたくしたちが神さまのことを証しするなら、それは心の中にお住まいくださる神さまご自身がご自分を証しされているのです。ですから、もしわたくしたちが悪いことをしたなら、それはわたくしたちの根本が悪なのではなくて、それほどわたくしちは弱いということです。もし神さまを否定するようなことを言ったとしたなら、それほどわたくしたちは弱いということなのです。この弱さは悪ではなく、汚れを生じさせます。神さまによって造られたわたくしたちですから悪なのではありません。でも罪があるから弱さがあって、そこから汚れが生じてしまうのです。

 ここでも大切なことは「わたし」ではなく「神さま」なのです。「わたし」は弱いので中から汚れたものが生じてしまいます。けれども「神さま」ご自身がそういう「わたし」の中でお働きくださってその御心にかなった善い業を成されるのです。わたくしたちの善い業は神さまの業なのです。イエスさまは単純に人を性悪説的に見ておられるのではなくて、神さまの善い業の器として見ておられるのです。わたくしたちは弱いにも関わらず神さまの御業の器として用いられ、善い業をなし、神さまを証することが出来るのです。神さまがそのように用いてくださることを心から願います。

コメントは受け付けていません。

2018年10月
« 8月    
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031  

写真 / 動画のページ (2)
礼拝案内 / 説教集 (77)

WP Cumulus Flash tag cloud by Roy Tanck requires Flash Player 9 or better.