7月23日 「食卓の下の子犬」

マルコ7章24節~30節

 救いを求める人の熱心さ、真剣さというものがあります。抱えている困難、問題が大きいほどそれは強くなると思います。そして、その困難や問題を乗り越えさせてくださる方が誰かを知ったなら一層その思いは強くなります。そして、そのような人に主は救いを下さいます。

 これまで、病の人の癒し、悪霊を追い払う出来事、会堂長ヤイロや長血を患う女性の物語を通して救いを求める人の熱心さ、真剣さ、あるいは謙遜、へりくだりの姿を見てまいりました。そして、そのような人たちに与えられた救いの出来事を見てまいりました。

 わたくしはこのギリシア人の女性をイメージします時に、美しく、眩しい姿が思い浮かべられます。本当は不謹慎かもしれません。困難の中で苦しみ呻いている人の姿は、美しいというよりは哀れに見えるものでしょうし、当人だって美しいなどとは言われたくないだろうと思うのです。皆さんはどのようなイメージを持つでしょうか。

 イエスさまは、この女性をご自分の伝道の対象とは見ておられませんでした。それゆえに積極的に関わろうとはしませんでした。そこはティルスという異邦人の多く住む町でした。イエスさまはゲネサレトから一時休息を得るために、人目を忍んでティルスに来ていたのです。けれども、そこに居るのがばれてしまいました。ティルスまでイエスさまについて来た人がいたか、あるいは知っている人がいたのだろうと思います。

 それを聞きつけてこの女性はイエスさまの所に来たのです。悪霊に憑りつかれた娘を救って欲しい一心で、イエスさまのところに来て、足元にひれ伏して救いを求めたのです。この女性に対するイエスさまの態度は拒否的に見えます。「子犬」という表現はある意味では軽蔑的な意味がありました。自分が伝道をしているのはイスラエルの民のためであって異邦人のためではないと言われました。あなたは異邦人だからいうなれば「犬」だというわけです。けれどもイエスさまはこの女性を拒んだのではなくて、あるいは蔑んだのではなくて、ちょっと酷い言い方ではありすけれども、ご自分に与えられた使命についてありのままに言っただけなのです。それに対してこの女性は食い下がりました。自分のことを子犬であると認めて、なおそういう子犬でも食卓からこぼれるパン屑はいただきますと言ったのです。

 イエスさまはこの女性の態度をご覧になられてお心を変えられました。これはすごいことです。この女性の熱心さ、真剣さ、謙遜さが救い主であるイエスさまのお心を変えたのです。そうしてこの女性は救いを受け取ることになりました。その救いは食卓からこぼれたパン屑ではなくて、言うなれば規格外品、アウトレットの救いではなくて、正規品としての救いでした。この女性によってイエスさまがお心を変えられたことによってすべての異邦人に対しても救いが与えられることが明らかにされたのです。

 日本人のわたくしたちもある意味では「子犬」です。異邦人だからです。わたくしたちも食卓の下にこぼれ落ちて来るパン屑ではなくて、規格外品、アウトレットの救いではなくて、正規品の救いを受け取ることが出来ました。それは、この女性の熱心さ、真剣さをご覧になられたイエスさまがお心を変えてくださったからです。だからこそ、わたくしはこの女性の姿をイメージする時、美しく、眩しい姿を思い浮かべるのです。わたくしたちも、困難や苦しみの中にあって、熱心に、真剣に、謙遜にへりくだって救いを求めている時、その姿は決して美しいものではないかもしれません。むしろかっこ悪いかもしれません。けれども、イエスさまは見ておられます。この世的な美しさ、かっこよさではなくて、神さまの御前に熱心に、真剣に、謙遜に救いを求める者の姿こそ美しいものであると。イエスさまの御前に、神さまの御前にいつでもそうありたいと願っております。

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