7月30日「エッファタ(開かれよ)」

マルコによる福音書7章31節~37節  

 イエスさまが耳が聞こえず、舌が回らない人を癒すために言われた言葉が「エッファタ」でした。これは「開かれよ」という意味のアラム語です。イエスさまは会堂長ヤイロの娘をよみがえらせる時もアラム語で「タリタ・クム(少女を起き上がりなさい)」と言われました。

 アラム語の歴史は紀元前千年までさかのぼるそうです。アッシリア帝国、バビロニア帝国、ペルシア帝国など世界を支配した国で使われた国際語だったそうです。イエスさまの時代は、ローマ帝国が支配している時代でしたけれどもユダヤ人たちはヘブライ語を使っていたようです。特に祭儀に関すること、祈りなどはヘブライ語だったようです。また、世界的にはアラム語から派生したシリア語というのが一般的に使われていたようです。

 イエスさまが何語を話しておられたかははっきりとしませんけれども、少なくとも、ここでアラム語を使っておられるのですから、アラム語は使えたでしょうし、ヘブライ語も普通に使っていただろうと思います。この「エッファタ」という言葉はわざわざ説明がなされているように誰もが聞いてすぐに分かる言葉ではなかったかもしれません。まるでおまじないの言葉のように聞こえたかもしれません。

 おまじないといいますと、イエスさまがこの人を癒される時に、耳に指を差し入れ、唾をつけて舌に触れたとあります。そして天を仰いで深く息をついたとあります。これもなんとなくおまじないのような行動にみえます。ちょっとした傷には唾をつけておけば治るなんて言ったりしますけれども、当時、病や傷を癒す時には唾をつけたり、触れたりするということが当たり前であったようです。けれども、イエスさまはこれらをいわゆる医療行為として行ったわけではないのではないかと思うのです。

 といいますのも、イエスさまはお医者さんではありませんので、この人の症状を見て、これは何という病気かを判断してそれを治そうとされたわけではないからです。耳が聞こえるようになって、しゃべれるようになって、そうして罪から解放されることを願って癒されたのです。イエスさまの時代、特に身体的な障がいは罪との関連で考えられていたわけです。ですから、治るということは罪が清められたことを意味しました。イエスさまがなさったことは、結果としては病気の癒しでありましたけれども、その実は罪の赦しであり、罪の清めであったのです。

 イエスさまが言われた「エッファタ(開け)」という言葉の意味は、ただ耳が聞こえるようになる、しゃべれるようになるために耳や口が開かれるためのおまじないではなくて、何よりも心が開かれて神さまが一緒にいてくださること、神さまこそがあなたの救いであることを悟るためでした。耳と舌に触れられたのは、この耳も舌も神さまが造られたものであり、神さまはご存知であるということを示すためでした。

 イエスさまはこのことを誰にも言わないように口止めされました。なぜなら、ただ病気が癒されたこととしか受け止められないで、耳や口が開かれたというだけで、本当は心が開かれて神さまのことが分かるようになったことを受け取らないことを知っておられたからです。だから人々はイエスさまのことを万能な医者ででもあるかのように言い広めたのでした。 

 イエスさまは、神さまを讃える言葉、心が開かれて神さまのことが分かった喜びの言葉を望んでおられます。わたくしたちは、どんなことがあっても、その一つ一つのことが神さまの御業であることを知りたいと思います。そのために心を開いていただきたいと願います。そうしていつでも神さまを讃えて信仰の道を歩んまいりたいと思います。

 

 

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