聖書:ロマ書14章1節~9節

説教題:「わたしは主のもの」

「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。」(ロマ4:1-2)

ものの好き嫌いに個人差があるように、信仰にもあるようです。「何を食べてもよいという人」と「野菜だけを食べる人」がいると表現されています。「救われて自由を得た人」と「信仰によって厳格に生きる人」と言い換えてみてもよいかもしれません。どちらが良いか悪いかということではありません。思慮深く慎重に厳格に生きる恵みと、何も恐れずに大胆に生きる恵みがあります。どちらにも一長一短があります。

「神はこのような人をも受け入れられた」とありますように、食べるか食べないかが問題ではないのです。大切なことは、神さま御自身は、食べる者も食べない者をも受け入れてくださったということです。

わたくしたちはいつも自分が食べるか食べないかを気にしているところがあります。それは、自分が正しいか間違っているかを気にしているということでもあります。そうしますと、今度は相手が正しいか間違っているかを吟味し始めるのです。そうして、それぞれの正しさがぶつかり合う時に裁き合いが起こるのです。自分や相手の正しさによってではなく、分け隔てなさらない神さまによって互いに立たされる時こそ、そこに平和が訪れるのではないでしょうか。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。…従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ロマ14:7-8)

これは信仰に生きる者がすべき決意について言っているのではありません。すでに「わたしたちは主のもの」にされているということです。神さまは、わたしの何か(正しさとか能力だとか)を問題になさいません。世の多くの人たちは、人生における最も重大な問題は自分自身であると思って生きているところがあると思います。けれども人生における最も重大な問題は、神さまがどういうお方であるかということなのです

「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ロマ14:9)神さまは、御子イエス・キリストを通して、すべての人をお救いになられ、あらゆる喜びと平和とで満たし、希望に満ちあふれさせてくださいました。これはただ一方的な恵みなのです。一方的な愛への招きなのです。わたしたちは主によって主のものにされたのです。いつまでも立ち続け、喜びと感謝の内に生きることが出来るのです。主のものとされているあなたがそうして生きることを主は願っておられるのです。

 

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