礼拝案内 / 説教集

8月6日「すべての人が満腹した2」

マルコによる福音書8章1節~10節

以前イエスさまは5千人以上の人たちに5つのパンと2匹の魚ですべての人を満腹させました。今回は、4千人の人たちを7つのパンと少しの魚で満腹にさせました。以前の奇跡はカファルナウムでなされました。カファルナウムはユダヤ人の住む土地です。今回はデカポリス地方という異邦人の住む土地での奇跡でした。

 注解書を開いてみますと、この二つの物語は元々一つであったという説明がありました。元々一つであった物語をユダヤ人たちへの奇跡と異邦人たちへの奇跡という風に二つに分けたのだというのです。カファルナウムでの奇跡の際、残ったパンは十二の籠になりました。これはイスラエルの十二部族を示しているそうです。また、今回は残ったパンは7籠でした。これは当時、世界は7つの民族で成り立っていると考えられていたことからきたものだそうです。このようにして神さまの恵みがすべての人に与えられることをマルコは記したのです。

 この物語において大切なことは、実は、神さまの恵みはすべての人に与えられるのだということだけではありません。もう一つ大切なことがあります。それは、弟子たちの姿にあらわされているように、人間は神さまの恵みを受け取ってもすぐに忘れてしまうことがあるということです。神さまの御業に対する人間の無理解です。この物語の弟子たちはカファルナウムで起こった5千人以上の人たちが満腹した奇跡をすっかり忘れてしまっているように見えます。

 弟子たちは本当にあれほどの奇跡をすっかり忘れてしまっていたのでしょうか。わたくしはそんなことはないと思うのです。ただこの時の弟子たちの状況がそれを思い出せないようにしていたのだと思うのです。つまり、弟子たちは異邦人の土地で伝道して大きな成果をあげたからです。ギリシア人の女性の娘から悪霊を追い出し、耳が聞こえず、舌が回らない人を癒し、今は4千人もの人たちが3日間も一緒にいてその教えを聞いて従って来ていたのです。まさに伝道絶好調でした。弟子たちはある意味、自分たちの伝道の成果に酔いしれていたのではないでしょうか。それで、もうすっかり満足してしまって従って来ている人たちのために恵みを求めることを忘れてしまっていたのではないかと思うのです。

 これが弟子たちがはまった落とし穴でした。そしてこれがイエスさまに対する無理解になったのです。イエスさまは弟子たちに力を与えられて有能な弟子を育てられたのではありません。ただ神さまの御業を担う働き手にされたのです。それを弟子たちは勘違いして自分たちの能力はすごいと思ってしまっていたのではないでしょうか。どんな所に行っても成果を上げられる。現に目の前に4千人もの異邦人たちがいる。こんなに成功を収めている。そう思ったのではないでしょうか。ですから、この後、誰が一番偉いかという議論さえするのです。

 イエスさまが望んでおられるのは神さまの御業を担う働き手として仕える者です。それは、自分がどういう能力を持ち、それを発揮するかということではなくて、恵みを求めている人たちに対して神さまの恵みの執り成し手となることです。食べる物がない人たちのために食べ物を求め、配る者。励ましや慰めを求めている人たちには神さまこそが慰め主であることを証する者になることを望んでおられるのです。わたくしたちの満足は自分が立派な人間になることではありませんし、自分だけが神さまの恵みを受け取ることではありません。すべての人と恵みを分かち合ってこそ本当に満足することが出来るのです。

 

7月30日「エッファタ(開かれよ)」

マルコによる福音書7章31節~37節  

 イエスさまが耳が聞こえず、舌が回らない人を癒すために言われた言葉が「エッファタ」でした。これは「開かれよ」という意味のアラム語です。イエスさまは会堂長ヤイロの娘をよみがえらせる時もアラム語で「タリタ・クム(少女を起き上がりなさい)」と言われました。

 アラム語の歴史は紀元前千年までさかのぼるそうです。アッシリア帝国、バビロニア帝国、ペルシア帝国など世界を支配した国で使われた国際語だったそうです。イエスさまの時代は、ローマ帝国が支配している時代でしたけれどもユダヤ人たちはヘブライ語を使っていたようです。特に祭儀に関すること、祈りなどはヘブライ語だったようです。また、世界的にはアラム語から派生したシリア語というのが一般的に使われていたようです。

 イエスさまが何語を話しておられたかははっきりとしませんけれども、少なくとも、ここでアラム語を使っておられるのですから、アラム語は使えたでしょうし、ヘブライ語も普通に使っていただろうと思います。この「エッファタ」という言葉はわざわざ説明がなされているように誰もが聞いてすぐに分かる言葉ではなかったかもしれません。まるでおまじないの言葉のように聞こえたかもしれません。

 おまじないといいますと、イエスさまがこの人を癒される時に、耳に指を差し入れ、唾をつけて舌に触れたとあります。そして天を仰いで深く息をついたとあります。これもなんとなくおまじないのような行動にみえます。ちょっとした傷には唾をつけておけば治るなんて言ったりしますけれども、当時、病や傷を癒す時には唾をつけたり、触れたりするということが当たり前であったようです。けれども、イエスさまはこれらをいわゆる医療行為として行ったわけではないのではないかと思うのです。

 といいますのも、イエスさまはお医者さんではありませんので、この人の症状を見て、これは何という病気かを判断してそれを治そうとされたわけではないからです。耳が聞こえるようになって、しゃべれるようになって、そうして罪から解放されることを願って癒されたのです。イエスさまの時代、特に身体的な障がいは罪との関連で考えられていたわけです。ですから、治るということは罪が清められたことを意味しました。イエスさまがなさったことは、結果としては病気の癒しでありましたけれども、その実は罪の赦しであり、罪の清めであったのです。

 イエスさまが言われた「エッファタ(開け)」という言葉の意味は、ただ耳が聞こえるようになる、しゃべれるようになるために耳や口が開かれるためのおまじないではなくて、何よりも心が開かれて神さまが一緒にいてくださること、神さまこそがあなたの救いであることを悟るためでした。耳と舌に触れられたのは、この耳も舌も神さまが造られたものであり、神さまはご存知であるということを示すためでした。

 イエスさまはこのことを誰にも言わないように口止めされました。なぜなら、ただ病気が癒されたこととしか受け止められないで、耳や口が開かれたというだけで、本当は心が開かれて神さまのことが分かるようになったことを受け取らないことを知っておられたからです。だから人々はイエスさまのことを万能な医者ででもあるかのように言い広めたのでした。 

 イエスさまは、神さまを讃える言葉、心が開かれて神さまのことが分かった喜びの言葉を望んでおられます。わたくしたちは、どんなことがあっても、その一つ一つのことが神さまの御業であることを知りたいと思います。そのために心を開いていただきたいと願います。そうしていつでも神さまを讃えて信仰の道を歩んまいりたいと思います。

 

 

7月23日 「食卓の下の子犬」

マルコ7章24節~30節

 救いを求める人の熱心さ、真剣さというものがあります。抱えている困難、問題が大きいほどそれは強くなると思います。そして、その困難や問題を乗り越えさせてくださる方が誰かを知ったなら一層その思いは強くなります。そして、そのような人に主は救いを下さいます。

 これまで、病の人の癒し、悪霊を追い払う出来事、会堂長ヤイロや長血を患う女性の物語を通して救いを求める人の熱心さ、真剣さ、あるいは謙遜、へりくだりの姿を見てまいりました。そして、そのような人たちに与えられた救いの出来事を見てまいりました。

 わたくしはこのギリシア人の女性をイメージします時に、美しく、眩しい姿が思い浮かべられます。本当は不謹慎かもしれません。困難の中で苦しみ呻いている人の姿は、美しいというよりは哀れに見えるものでしょうし、当人だって美しいなどとは言われたくないだろうと思うのです。皆さんはどのようなイメージを持つでしょうか。

 イエスさまは、この女性をご自分の伝道の対象とは見ておられませんでした。それゆえに積極的に関わろうとはしませんでした。そこはティルスという異邦人の多く住む町でした。イエスさまはゲネサレトから一時休息を得るために、人目を忍んでティルスに来ていたのです。けれども、そこに居るのがばれてしまいました。ティルスまでイエスさまについて来た人がいたか、あるいは知っている人がいたのだろうと思います。

 それを聞きつけてこの女性はイエスさまの所に来たのです。悪霊に憑りつかれた娘を救って欲しい一心で、イエスさまのところに来て、足元にひれ伏して救いを求めたのです。この女性に対するイエスさまの態度は拒否的に見えます。「子犬」という表現はある意味では軽蔑的な意味がありました。自分が伝道をしているのはイスラエルの民のためであって異邦人のためではないと言われました。あなたは異邦人だからいうなれば「犬」だというわけです。けれどもイエスさまはこの女性を拒んだのではなくて、あるいは蔑んだのではなくて、ちょっと酷い言い方ではありすけれども、ご自分に与えられた使命についてありのままに言っただけなのです。それに対してこの女性は食い下がりました。自分のことを子犬であると認めて、なおそういう子犬でも食卓からこぼれるパン屑はいただきますと言ったのです。

 イエスさまはこの女性の態度をご覧になられてお心を変えられました。これはすごいことです。この女性の熱心さ、真剣さ、謙遜さが救い主であるイエスさまのお心を変えたのです。そうしてこの女性は救いを受け取ることになりました。その救いは食卓からこぼれたパン屑ではなくて、言うなれば規格外品、アウトレットの救いではなくて、正規品としての救いでした。この女性によってイエスさまがお心を変えられたことによってすべての異邦人に対しても救いが与えられることが明らかにされたのです。

 日本人のわたくしたちもある意味では「子犬」です。異邦人だからです。わたくしたちも食卓の下にこぼれ落ちて来るパン屑ではなくて、規格外品、アウトレットの救いではなくて、正規品の救いを受け取ることが出来ました。それは、この女性の熱心さ、真剣さをご覧になられたイエスさまがお心を変えてくださったからです。だからこそ、わたくしはこの女性の姿をイメージする時、美しく、眩しい姿を思い浮かべるのです。わたくしたちも、困難や苦しみの中にあって、熱心に、真剣に、謙遜にへりくだって救いを求めている時、その姿は決して美しいものではないかもしれません。むしろかっこ悪いかもしれません。けれども、イエスさまは見ておられます。この世的な美しさ、かっこよさではなくて、神さまの御前に熱心に、真剣に、謙遜に救いを求める者の姿こそ美しいものであると。イエスさまの御前に、神さまの御前にいつでもそうありたいと願っております。

7月16日 「腹にあるもの、心にあるもの」

マルコ7章14節~23節

 「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものはなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」「人の汚れとは何か」、「人の汚れはどこから来るのか」何やら哲学的な問いのようなイエスさまのお言葉です。

 これはイエスさまが律法学者とファリサイ派の人たちと「食物規定」をめぐる論争をした後で言われたお言葉です。この論争の内容は食べ物に関することというよりは「神からの掟と人の言い伝え」のどちらを重んじるべきかという信仰の根幹に関わるものでした。イエスさまはこの論争で、神さまというお方は、掟を与えて人がそれを守るか守らないかを問うお方ではなくて、掟を与えられた神さまご自身がそれに従い得ない人の赦しと救い、正しさ、清さの基になられるお方であることを明らかにされたのでした。人の言い伝えは、それがどれほど正しいものであったとしても、それによって神さまの正しさには及ばないものであり、人は自分の正しさ、清さによって赦しも救いも得られないのだということを明らかにされたのでした。

 そうしてここで「人の汚れ」について語られたのが今朝お読みいただきましたみ言葉なのです。弟子たちは食物規定をめぐる論争の意味を理解していなかった故にこのイエスさまのお言葉の意味をも理解することが出来ませんでした。それでイエスさまは続けて言われました。「すべて人の体に入るものは、人を汚すことは出来ない…。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」と。さらに「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。」と言われました。

 まるで「性悪説」です。これは人間の性は悪であると中国の思想家(荀子)が唱えたものです。これに対して「性善説(孟子)」というのがあります。イエスさまは、人の根本は悪であるとみなしておられるのでしょうか。一見そういう風にも見えますけれども、はっきりと言います。それは違います。イエスさまは「人の根本は悪だ」と言っておられるのではありません。人にはそういう弱さがあることを認めておられることは確かです。けれども、それゆえに、人に与えられている神さまの愛と憐れみがどれほど大きいか、深いかということを示しておられるのです。

 人の中には汚れたものがあるけれども、しかしその中から善いものが出てくるようになるのです。それは、その心の中に神さまが聖霊を遣わしてお住まいくださる時です。それは、その人の正しさや清さとは関係ありません。ただひたすらに神さまの正しさ、神さまの清さ、神さまの愛と憐れみに関わることなのです。もしわたくしたちが、善いことをしたなら、それは心の中にお住まいくださる神さまの御業なのです。もしわたくしたちが神さまのことを証しするなら、それは心の中にお住まいくださる神さまご自身がご自分を証しされているのです。ですから、もしわたくしたちが悪いことをしたなら、それはわたくしたちの根本が悪なのではなくて、それほどわたくしちは弱いということです。もし神さまを否定するようなことを言ったとしたなら、それほどわたくしたちは弱いということなのです。この弱さは悪ではなく、汚れを生じさせます。神さまによって造られたわたくしたちですから悪なのではありません。でも罪があるから弱さがあって、そこから汚れが生じてしまうのです。

 ここでも大切なことは「わたし」ではなく「神さま」なのです。「わたし」は弱いので中から汚れたものが生じてしまいます。けれども「神さま」ご自身がそういう「わたし」の中でお働きくださってその御心にかなった善い業を成されるのです。わたくしたちの善い業は神さまの業なのです。イエスさまは単純に人を性悪説的に見ておられるのではなくて、神さまの善い業の器として見ておられるのです。わたくしたちは弱いにも関わらず神さまの御業の器として用いられ、善い業をなし、神さまを証することが出来るのです。神さまがそのように用いてくださることを心から願います。

7月9日 「神の掟、人間の言い伝え」

マルコ7章1節~13節

 「信仰に生きる」というのは「神さまを信じて生きる」ということです。「神さまを信じる」ということは「イエスさまの十字架が救いの御業である」ことを信じることです。そうして「救われた者として生きる」ことが「信仰に生きる」ということになるのです。

 わたしは、イエスさまの十字架の命と引き換えに救われたのだということを信じるなら、熱心に聖書を読むとか、熱心に祈るとか、たくさん奉仕するとか、献金するとかそういうことはひとつも気にすることはないと思っています。しなくてもよいとは言いませんけれども、自分で神さまと向き合って出来ることをしたらよいと思います。

 神さまは「わたしが望んでいるのは、焼き尽くす献げものでも、いけにえでもない」と言われます。神さまは、わたくしたちが持っている何かを欲しておられるのではありません。わたくしたち自身を求めておられるのです。ですから、大切なことは、わたくしたちが持っている何かをどれだけ献げるかではなくて、わたし自身を神さまの御前に献げているかということなのです。

 しかしこれがなかなかに難しいのです。神さまの御前にわたし自身を献げるとはどういうことでしょうか。このことについて大切なことは「わたしの実存の所在」ではないかと思います。たとえば、わたくしたちはお金を献げます。もし、お金をわたしと同等のものか、あるいは、自分の身代わりのようにして献げるとしたら、神さまはそれをお喜びになられるでしょうか。お金を献げる時、その額を気にしているとしたら、それはわたし自身を献げているのではなくて、やっぱりわたしの持っているものを献げているに過ぎないということになりかねないのではないかと思うのです。

 わたくしたちは神さまに造られた者です。わたくしたちの持っているあらゆるものは神さまから頂いたものです。わたしも、わたしの周りにあるあらゆるものもすべて神さまのものなのです。わたくしたちが献げるものは、わたしの持っている何かではなくて、そもそも神さまのものなのです。わたし自身を神さまに献げるということは、わたしの持っている何かを献げることではなくて、わたし自身を献げることなのです。つまり、ただひたすら信仰に生き続けるということ以外にないのです。

 今朝お読みいただきましたところでなされている議論は「食物規定」に関することです。イエスさまと弟子たちが食事の時に手を洗わなかったことを律法学者やファリサイ派の人たちがわざわざやって来て指摘したというのです。実はここでの議論の中心にあるのは食べ物のことではなくて献げものについてです。そして、献げものにおいて何を献げているかということが議論されているのです。つまり、あなた自身を献げているのか、それともあなたの持っている何かを献げているかということです。

 そのたとえとして「コルバン」が挙げられております。これは何でも「コルバン」と言えば神さまへの献げものということで父母を敬うために財産を使うことさえも拒否することが出来るというように、私財を守ることに悪用されていました。もともとは神さまが定めた掟であった「コルバン」を自分のために用いるようになっていたのです。ちっとも自分を神さまに献げていないことをイエスさまは指摘したのです。わたくしたちは自分の持っている何かを献げる時すぐにこれは良い、これは悪いと線を引きたくなります。これはこれだけ献げようと考える時、反対に、これはこれだけ自分で持っていようとも思うのです。

 わたくしたちは、神さまによって造られ、守られ、支えられています。すべては神さまのものなのです。わたくしたちが献げるものはすべて神さまにお返しするだけなのです。この命でさえもただ神さまに返すだけなのです。このことが分かる時、わたくしたちは何の心配もしないで、本当に心の底から喜びと感謝をもって献げものをすることが出来るのです。わたし自身を惜しむことなく神さまに献げることが出来るのです。

7月2日 「心が鈍くなる」

マルコ6章45節~56節

 聖書にはイエスさまがなさった奇跡の物語がたくさんあります。先週は「五千人の人たちを満腹にした」奇跡の物語をお読みいたしました。5つのパンと2匹の魚で五千人以上の人を満腹にしたこの出来事で大切なことは、イエスさまが食べ物にまさる真なる命のパンなるお方であるということと、天の収穫の喜びはとてつもなく大きいのだということでした。そして、わたくしたちもまた命をパンを受け取り、一人一人が天の喜びであることを示した物語でした。

 弟子たちはこれほどの奇跡を目の当たりにしながら、その意味を理解出来ていませんでした。それで湖の上でまた不思議な出来事が起こった時にそれを理解することが出来ませんでした。それを心が鈍くなっていたからだと今日の箇所は記しているのです。

 弟子たちは五千人の給食の奇跡の時、伝道から帰って来たばかりでした。イエスさまはその弟子たちに休息を与えようとしておられたのですけれども群衆によって休むことは出来ませんでした。それで「強いて」舟で湖を渡らせました。「強いて」というのですから、一刻も早く休息を与えようと考えておられたか、あるいは、その時は湖を渡れるような状況ではなかったのに無理やり行かせたということになります。もう夜になっていましたし、風も強かったわけですから後者であろうと思います。案の定、弟子たちは湖の真ん中で逆風のために前に進めなくなっていました。そこに、イエスさまが現れたのです。しかも、湖の上を歩いて!弟子たちは「幽霊だ」と言って恐れました。当然です。

少し前に、湖の上で嵐にあって舟が転覆しそうになったことがありました。この時はイエスさまが一緒でした。けれども、今回は違いました。イエスさまは一緒にいませんでした。弟子たちは逆風の中一晩中何を思って舟をこぎ続けたのでしょうか。自分の身を案じていたであろうと思います。不安でいっぱいだったと思います。わたくしは逆風に逆らわないで引き戻して、朝になって天候が回復していたら改めて渡ればよいのにと思ったりします。けれども、弟子たちはそうはしませんでした。イエスさまが強いてでも舟で出させたのだから不安でも前進しようとしたのかもしれません。

 けれども、弟子たちの心は鈍くなっていました。一晩中進まない舟をこぎ続けてもうへとへとでしたし、不安でしたし、そんな時、心が鈍くなってしまっても仕方がないとも思えます。わたくしたちだって、調子が良い時は神さまを信じて、平安で、希望をもって進んで行けますけれども、調子が悪い時、物事が上手くいかない時、疲れ果ててしまっている時、心が鈍くなっている時があります。神さまのことを信じていないわけではないけれども、神さまがどんなお方であるかということを忘れてしまうということです。神さまがこれまでしてくださったことを忘れてしまうということです。

 イエスさまは湖の上で進めなくなっていた弟子たちの所に湖の上を歩いて来られました。神さま、イエスさまというお方はそういうお方なのです。わたくしたちが思いもよらない仕方で近づいて来ることが出来るのです。弟子たちのようにそのことを忘れているとイエスさまが一緒にいてくださること、イエスさまが来てくださることを忘れてしまって、まるで幽霊が来たかのように驚き、恐れるのです。心が鈍くなっている時、神さまが見えなくなるのです。神さまがどのようなお方であるかを忘れてしまうのです。

 イエスさまは決してわたくしたちを見捨てたり、置いてけぼりにはしません。いつも一緒にいてくださいます。どんな時も、どんなところへも来てくださいます。そして、弟子たちがそれがイエスさまだと分かった時心の底から安堵したように、わたくしたちの心の平安はいつもイエスさまと共にあるのです。この方こそわたくしたちの命なるお方であり、救い主なるお方だからです。

6月25日 「すべての人が満腹した」

マルコ6章30節~44節

 イエスさまの伝道活動は「福音を語る」ことと、「病人の癒し」と「悪霊払い」が中心でした。他にも律法論争をしたりしました。こういった物語は「説教」、「奇跡物語」、「論争物語」などという風に分類されます。さらに「奇跡物語」は「治癒奇跡物語」、「悪霊払い物語」、「その他の奇跡物語」という風に分類されます。今朝お読みいただきました「五千人の給食」の物語も「奇跡物語」です。

 この五千人の給食の出来事は、他のどの奇跡物語にも増して不思議な出来事を記しています。ここには神さまの真理が隠されています。「秘儀」や「奥義」などともいわれますけれども、すぐに知ることは出来ません。そういう意味で言えば、どんな聖書の説き明かしも神さまからすれば当たらずとも遠からずといった感じでど真ん中ということはないかもしれません。この物語を読みますといつもとても難しいなぁと思わされます。

 イエスさまが十二弟子を伝道に派遣され、それから弟子たちが帰って来た時の出来事です。イエスさまは伝道から帰って来た弟子たちを労ってひと時休息を与えようとされました。けれども、人里離れたところまで退いたのに、そこに大勢の人たちが先回りしていたのでした。イエスさまはその人たちを憐れまれて教えを語られました。もう夕方になろうとするころ弟子たちが言いました。「そろそろ解散させましょう」と。するとイエスさまは「あなたたちが食事を与えなさい。」と言われました。本当は休むはずだった弟子たちからすれば「えぇぇ…。マジっすか…。」という感じであったのではないでしょうか。

 こうして五つのパンと二匹の魚で五千人以上もの人達が満腹するほど食事をしたのでした。イエスさまがそれを分けられ、弟子たちがそれを配ったのでした。どうしてこんなにも不思議な、ある意味では突拍子もない出来事が残されたのでしょうか。この物語に隠された神さまの真理とは何なのでしょうか。

 「パン」と「魚」というキーワードを手繰ると、イエスさまが荒れ野で受けた誘惑を思い起こします。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。また、イエスさまは「わたしは命のパンである」とも言われました。きっとイエスさまならパンが1個であろうと5個であろうと、なんならパンが1つもなかったとしてもすべての人を満腹させることが出来たでしょう。問題はパンの数ではありません。こうしてパンを分け与えることが出来るお方こそが真の命のパンであるお方だということです。食べ物のパンに勝る方はこのお方しかおられないということです。

 また「魚」から思い起こすのは弟子の選びの時「わたしに従いなさい。人間をとる漁師にしよう」と言って招かれたことです。また、復活の後、魚がとれなかった弟子のところに来て「舟の右に網をうちなさい」と言われると網が破れんばかりに魚がとれたことがありました。魚は神さまの収穫の喜びの象徴と言えます。種まき人のたとえにもあるように、その収穫は百倍以上にもなるのです。それがたった二匹の魚を五千人以上もの人たちに分け与えることが出来たことに象徴されているといえます。

 この物語は単にイエスさまの力を証明する物語ではありません。イエスさまがとてつもない奇跡を起こすことが出来ることを証明するものがたりではありません。この物語、この出来事は、今ここにこうして教会が立ち、わたくしたちがキリスト者として歩んでいることにつながっています。この方を命のパンとし、この方によって救われたわたくしたち一人一人に深く関わる出来事が記された物語なのです。そういう神さまの収穫の喜びの物語なのです。

6月18日 説教要旨「人の企みの愚かさ」

マルコ6章14節~29節

今日は「人の企み(たくらみ)の愚かさ」という説教題にしましたけれども、「企て(くわだて)」にしたら良かったかなと思いながら説教作成をいたしました。「人がはかりごとをすること」という意味で同じですけれども、企ての方が具体的な行動という意味があるかと思いました。

 最初にお話ししておきたいことは、人が何かしらを企むことはどんなことでも愚かなことだと言いたいのではないということです。神さまの目から見れば、人間の企てはすべて愚かでしょうけれども、しかし、神さまはそういう人の愚かさの内にも働かれるお方なのです。時には、人の愚かさを御業として成されるお方なのです。

 ただ気を付けなければならないのは、人の企てが愚かであっても神さまは働かれるのだからといって、なんでもかんでも企てをしても良いということではなくて、神さまの御旨がなされることをよくよく考えて企てをしたほうが善いということです。もちろん、わたくしたちは神さまの御旨のすべてを知り尽くすことは出来ません。これでいいのだろうかといつも心配しながら歩んで行くものです。神さまの御旨にかなった歩みをしようとしてもなかなか難しいものです。

 いずれにしても、大切なことは、神さまを信じて前進し続けるということです。前進というのはただ時間の流れに、あるいは時代の流れに流されることではありません。神さまが喜ばれるであろう方向へ自らの足を踏み出すことです。そこが嵐の中でも、荒れ野でも、流れに逆らうことになったとしても勇気を持って自分の足で前に進んで行くことです。この勇気は、自分の決意や覚悟、熱意とは違います。わたくしたちの勇気の源は、神さまが下さる希望であり、恵みであり、励ましであり、慰めなのです。

 イエスさまは、洗礼者ヨハネが殺されたことを知って、自分の時が来られたことを知って伝道活動を開始されました。洗礼者ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けるということだけでなくて、ヘロデ王の愚かさによって、人間の企てによって殺されることによっても、イエスさまの十字架の道備えをしたのです。ここに神さまの御旨がありました。イエスさまはそうして十字架の道を歩み始められたのです。

 ヘロデ王は「王」とはいえローマの支配下にある地方領主でした。「国」もローマからすれば一つの領地にすぎませんでした。それでもヘロデ王は自分の好き勝手に出来るほど権力を振るっていたわけです。そうして、自分の兄弟フィリポの妻を自分の妻にしたのです。洗礼者ヨハネが殺されたのは、このことを面と向かって批判したからでした。ただ面白いことにヘロデ王はヨハネを嫌ってはいませんでした。ヨハネを嫌っていたのは妻ヘロディアでした。

 ヘロディアはヘロデ王との結婚を批判したヨハネを亡き者にしようと企んでいました。そのチャンスがヘロデ王の誕生日の時に訪れました。娘の踊りに喜んだヘロデ王が褒美を与えようとしましたら娘は母と共謀してヨハネの首を望んだのでした。そうしてヨハネは殺されたのです。これほどの愚かな企てはありません。神さまの御旨に程遠いようい思えます。けれどもここに神さまのご計画の成就がありました。神さまはどんなことも御旨にかなったこととして用いることが出来ます。そして、それが救いに繋がりさえするのです。それはただ信仰によって知ることが出来るのです。

 イエスさまがヨハネの死をきっかけに十字架の道を歩まれたように。行く手に困難や苦しみが待っている道であったとしても、わたくしたちは神さまを信じて、そこに御旨がなされることを信じて、信仰の道を歩んでまいりたいと思うのです。

2月5日「わたしに従いなさい2」

マルコ福音書2章13節~17節

イエスさまが最初に弟子にされたのは2組のガリラヤ湖の漁師兄弟でした。イエスさまは彼らに「人間をとる漁師にしよう」と言われました。これは、普通の漁師ではない何か特別な存在にするという意味ではなくて、これまで自分の生活のため、命のために働いてきたことが、神さまを証しし、神さまの恵みを人に分け与える存在になるという意味でした。

イエスさまに従って弟子になるということは、何か特別な存在になることではなくて、これまで通りに生きていたわたしがそのままの姿で、神さまを証しし、神さまの恵みを人に分け与え、そうして神さまの御業のために用いられるようになるということです。それをなさるのは神さまなのです。ですから、漁師は人間をとる漁師に、大工は人間をとる大工になるのです。主婦なら人間をとる主婦に、学生なら人間をとる学生に、サラリーマンなら人間をとるサラリーマンになるのです。誰もが特別な人間をとる漁師になるのではないのです。

イエスさまは5人目の弟子として徴税人アルファイの子レビをお選びになられました。徴税人というのは誰からも忌み嫌われる存在でした。罪人のレッテルさえ貼られた存在でした。なぜなら、ローマの権力を傘に100円の税金を150円徴収して私腹を肥やしていたからです。人を食いものにして誰からも嫌われている徴税人を弟子にするということは考えられないことでした。

わたくしたちも、誰かを教会に招く時、あるいは自分がキリスト者であることを明らかにするとき、この人になら話せる。この人なら教会に招ける。でもこの人にはちょっと話せない…。この人は招けない…。なんて品定めをするように人を見ることがないでしょうか。イエスさまはそういうことはなさいません。どんな人をもお招きになられ、弟子にしてくださるのです。徴税人でさえも弟子になさるのですからなおさらです。

イエスさまは言います「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と。わたくしが学生の頃大変お世話になったある牧師はいつも説教で「キリスト者が聖人君子ばかりになったら困る」と語られました。赦されたい、清められたいと願って教会に足を踏み入れた人に、聖人君子の集まりのような教会が、ここは自分の来るところではないと感じさせてしまったらそれはイエスさまの望んでおられることに反することになります。わたくしたちが聖人君子になるのではないのです。わたくしたちはあくまでも罪人の集まりです。そのわたくしたちを赦し、清めてくださった方を証しするのがキリスト者なのです。

律法学者たちというのはそういう意味では聖人君子でした。お利口さんで、清く正しい人たちでした。罪人とは関わらないのです。もちろん自分も罪を犯さないですし、罪など無いとさえ思っていたでしょう。けれども、そういう律法学者たちは、赦し、清めてくださる神さまを証しすることはありませんでした。罪人を招くことなどありませんでした。徴税人たちと食事をしたイエスさまとは真逆です。時に、人間の清さ、正しさは神さまのお心とは真逆の方向にあるのです。だから、わたくしたちは人間的な清さ、正しさを求めたりしません。わたくしたちを赦し、清めてくださるイエスさまの招きに応えて、イエスさまと一緒に生きて生きたいのです。

教会は、イエスさまに招かれた罪人の集まりです。イエスさまによって赦され、清められた罪人だらけの場所です。けれども、ここには本当の安らぎがあります。とってつけたようなお利口さんになんかなる必要がないからです。イエスさまが「いらっしゃい」と声をかけてくださっています。本当の自分、そのままの自分でいられるこの場所に、あなたも招かれているのです。

1月29日「あなたの罪は赦される」

マルコ福音書2章1節~12節

イエスさまが伝道を始められてから数日の内にどれほどの人がイエスさまのうわさを耳にしたでしょうか。ガリラヤをぐるりと巡ってカファルナウムに戻って来た時、イエスさまがおられた家には人が溢れかえって家を取り囲むほどだったようですから、ものすごい勢いでうわさは広まっていったのだろうと思います。

イエスさまの所に集まって来ていた人たちが望んでいたことは何だったのでしょうか。野次馬根性でうわさの真相をこの目で見ようと思っていた人もいたでしょう。もっと切実な思いで、悪霊に取りつかれた人、病気の人を連れて来た人もいたでしょう。誰もが何か心の内に求めるものがあって集まって来ていたことには違いはないと思うのです。

その中に並々ならない思いで来た人たちがいました。中風の人を床ごと担いで来ていた人たちがいたのです。それだけではありません。イエスさまがおられる家の状況を見て、その家の屋根に登って屋根をはがして床ごと病気の人をイエスさまの目の前に吊り降ろしたのです。あまりにも非常識な行動です。他人の家を壊したばかりではなく、家の中で何かをなさっていたであろうイエスさまの妨げにもなったはずです。

わたくしたちならどうするでしょうか。きっとお利口さんに順番を待つでしょう。どんな時でもある程度は常識的であろうとするでしょう。他人のものを壊したり、誰かの邪魔をするなんてもってのほかだと思うでしょう。けれども、そこにイエスさまがおられることを知っていながら、他の人に遠慮して、常識的であろうとして、お利口さんになることに何の意味があるでしょうか。イエスさまが望んでおられることは、そういうお利口さん、常識人ではありません。非常識であろうとも自分の懐に飛び込んで来ることです。

イエスさまは彼らの行動を見て、病気の人に「あなたの罪は赦される」と言われました。「赦された」ではなく「赦される」と言われたのです。即座に赦しが起こるのではなく、これから起こると言われたのには意味がありました。そこにやましい気持ちを持った律法学者たちがいたからです。律法学者たちは言うなれば当時のどんな人よりも常識的な人たちでした。彼らは罪を赦すことが出来るのは神のみだと心の中で考えていたのです。その通りです。けれども、そのあまりの常識的な考えではイエスさまこそが神さまの御子であり救い主であることが分からなかったのです。それゆえにイエスさまが神を冒涜していると思ったのです。

ここにすでにイエスさまの伝道と十字架の歩みにおける律法との決着があるように思います。律法によって人は常識的な人間になれたとしても、救いを受けることは出来ないということです。律法をどれほど守っても救われた者として生きる道は開かれないのです。イエスさまは十字架によって全ての人を救う御業を成し遂げられました。だから、ここでは「赦される」なのではないでしょうか。律法から自由になって、イエスさまの十字架を仰いで生きるようになってはじめてわたくしたちは救われた者として生きる道を歩み始めるのです。

 

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