礼拝案内 / 説教集

1月22日「よろしい清くなれ」

マルコ福音書1章40節~45節

イエスさまは伝道活動において「会堂で教えを語ること」、「悪霊を追い出すこと」、「病気の人を癒すこと」これを三本柱としていました。この物語は単に「病気の人を癒す」物語ではなくて、律法との関係についても語られている物語なのです。信仰と律法の関係は今でもわたくしたちにとってとても難しい課題があります。

イエスさまが伝道されていた当時、律法は生活のあらゆることを規定していました。病気もまた律法との関係で考えられていました。律法を守って正しく生きていれば恵みをいただけて、律法を破って罪を犯せば病気のような悪いことが起こると考えられていたのです。

これは現代に生きるわたくしたちにとって関係のない話ではありません。例えば、健康について考えて見ますと、健康に良いと言われることをしているかいないか、日常生活の習慣や食事など、良いことをしているかしていないかで病気になるかならないかを、半ば強迫観念的に考えている人がいたりします。律法主義的な考え方に似ています。

イエスさまの所に来た重い皮膚病を患っている人は「御心ならば、わたしを清くすることがお出来になります。」と言いました。「治す」のではなく「清くする」と言っているのは、病気の患部が治るという意味ではなくて、病気を引き起こしている罪を清めてもらえれば病気が治ると考えていたからです。

イエスさまはこの人を深く憐れまれました。それは、病気によって苦しい生活を強いられてきたことへの同情ではありません。律法に縛られていることへの憐れみです。イエスさまはこの人に触れて病気を癒されました。「よろしい。清くなれ」というお言葉は病気を治すお言葉ではなくて、律法的な汚れを清められるためのお言葉です。それから、誰にも話さずに祭司に清めの証しをしてもらいなさい。律法的な汚れが清められたのだから、ちゃんと律法の手続きを経て清められたことを証ししなさい。と言われたのです。

この人はそれをしませんでした。せっかく律法的な汚れを清めていただいたのに、すぐさま律法の手続きをせずに律法違反をしてしまったのです。イエスさまのお言葉を無駄にしたと言えます。これが律法の問題です。先ほど健康のことをいいました。何か良いことを1つしたからといって5つ悪いことをしていて意味があるでしょうか。悪いことを5つやめたとして、良いことを1つもしなかったら意味があるでしょうか。1つやるなら全部やらなければならないのです。1つやめたなら全部やめなければならないのです。

信仰において大切なことは、律法的な意味でどれだけ良いことをするかというところにはありません。ただイエスさまだけがわたしを清めることがお出来になる方であるということを信じて生きることが大切なのです。イエスさまのお言葉に従って生きる時、良いことも悪いことも、すべて神さまの御腕の業であることが分かるようになります。わたしが良い人間になるかならないか、良いことをするかしないかではなく、そういう律法主義的な生き方から自由になって、ただ恵みの内に生きることが出来るようになるのです。

 

1月15日「イエスの宣教活動」

教会ではよく「宣教」とか「伝道」という言葉を耳にします。キリスト者ではない人たちは、「布教」と表現することがあります。
「宣教」というのは、国や地域に対して福音を伝えること。「伝道」とは個人ないしはある集団に対して福音を伝えることと説明されているものがあります。また「宣教」とは、教会全体の業であり、「伝道」とはキリスト者個人の業という風に説明しているものもありました。いずれにしても、神さまの福音を伝えること、イエスさまが救い主であることを人に伝えることに変わりはありません。
さて、イエスさまの伝道活動(わたくしは普段「宣教」という言葉をあまり使いません。説教題はテキストから「宣教」にしましたけれども、以下では「伝道」という語にします)は、イエスさまの伝道活動の三本柱は「教えを語ること」、「悪霊を追い出すこと」、「病気の人を癒すこと」でした。この三本柱は「祈り」という土台の上でこそ立ち続けられるものでした。イエスさまは召してくださった神さまに「祈り」をして伝道活動の土台としたのです。
宣教にしろ伝道にしろ、教会の業にしろキリスト者個人の業にしろ、これらは単に能力の有無によりません。「祈り」を土台にして成されるのです。
イエスさまは「アッバ」と言って祈られました。これは親しみを込めて父親に「おとうさん」と呼びかける言葉です。イエスさまは神さまに「おとうさん」と呼びかけて祈られました。神さまがとっても近くにおられたのです。そういう祈りでしたから、祈りの内容もまた親しみを込めて、身近な存在としてのおとうさんに話しかけるようなものであっただろうと思うのです。そうして、教えを聞く人、悪霊に取りつかれている人、病気で苦しんでいる人たちのために自分が用いられるようにと祈られたのだろうと思うのです。
時々、やけに長々と、難しい言葉で、あれやこれや盛りだくさんの祈りを聞くことがあります。形式的な祈り、格調高い祈りも良いのかもしれませんけれども、それはイエスさまの祈りとはかけ離れているのではないかと思わされることがあります。もっと神さまを近くに感じながら、親しみを込めて「おとうさん」と呼びかけて祈る祈り、もっと無邪気で、素直な祈りが今日における教会の伝道活動には必要ではないかと思うこともあります。
祈りが変われば、信仰の有様が変わります。祈りが変われば、成される業が変わります。祈りが変われば伝道の有り方、その成果もまた変わるように思うのです。なぜなら祈りは教会の土台であり、キリスト者の土台だからです。

1月8日「悪霊を黙らせる」

イエスさまの伝道活動の三本柱は、会堂で教えを語ること。悪霊を追い出すこと。病気の人を癒すことでした。今日の所は、三本柱の一つである「病気の人を癒す物語」です。
イエスさまがはじめて癒された病気の人は、ついさっき弟子にしたシモンのしゅうとめ(奥さんのお母さん)でした。あれ?と思いませんか。シモンはイエスさまに従うために仕事の道具も家族も全部捨てたはずでした。それなのに、イエスさまはわざわざシモンの家に行かれたのです。
イエスさまに従う人は誰でも一切を捨てて従わなければならないと思っている人がいます。そういうメッセージを聞くこともあります。聖書を開きますと確かにそのように語られている所があります。イエスさまも「はっきり言っておく、わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は誰でも、…百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」と語られております。
「すべてを捨てる」というのは、単になんでもかんでも捨てて、裸一貫になればよいという意味ではないということをイエスさまはシモンの家に行くことによって示されたのです。
「捨てる」というのは関係を断ち切ることではなくて、それまであった関係の間にイエスさまが介してくださって新しい関係が結ばれるということです。それまで「わたし」と「それ」あるいは「あなた」という二人称的な関係から、その間にイエスさまが立ってくださって三人称的な関係になることを「捨てる」と表現しているのです。
シモンとしゅうとめ、しゅうとめと病気、わたしとあなた、わたしとそれ、すべての関係がイエスさまによって新しい関係として結び合されるのです。そうしてすべてが神さまの恵みの内にあることが分かるようになるのです。
病気のようなわたしにとって嫌なもの、歓迎されないものも、イエスさまがその間に立ってくださることによって恵みとして受け取られるのです。わたしにとって嫌なもの、歓迎されないようなものが、悪いものとしてしか見えないのは悪霊の仕業によります。神さまの恵みから離れているとか、神さまの愛と憐れみが注がれていないと思えるのは悪霊の仕業なのです。
イエスさまのお言葉は、悪霊を黙らせ、神さまの恵みが見えるようにするお言葉であり、神さまの愛と憐れみが受け取られるようにするお言葉なのです。イエスさまのお言葉を聞く時、わたくしたちはこの世にあるすべてのものが神さまがくださった恵みの賜物であることを本当に知ることが出来るようになるのです。
不思議に思われるなら、教会にいらしてください。一緒にイエスさまのお言葉を聞きましょう。あなたを取り囲むあらゆるものが神さまがくださる恵みの賜物であることを知ることが出来るようになりますよ。

1月1日「権威ある新しい教え」

マルコ福音書が、イエスさまが伝道活動で最初になさったこととして記しているのは、カファルナウムの会堂で教えを語られたことと、汚れた霊に取りつかれた男を癒した出来事でした。
イエスさまの教えを聞いた人たちは「その教えに非常に驚い」て、「権威ある新しい教えだ」と言いました。これまで聞いて来た律法学者たちの教えとは違っていたのです。
律法学者たちの教えは、清く正しく生きる方法、罪を犯さない生き方を、律法を解釈して生活に適用させる教えでした。つまり、何をしたら良くて、何をしたら悪いかという教えです。
イエスさまの教えは違いました。どうしたら間違わないか、罪を犯さないかということを教えたのではありませんでした。ただ神さまの愛と憐れみの内に生きることを教えたのです。
汚れた霊に取りつかれた男に対して、律法学者ならこう言ったでしょう。「皆さん、あの男は汚れているので近づいてはなりません。あなたがたも汚れてしまわないようにするためです。」と。そして、男に対しては「あなたは汚れているからここには来ないように。」と。律法学者は、この男の人自身が汚れている存在であると見たでしょう。
けれども、イエスさまは、周りの人にでもなく、その男にでもなく、汚れた霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」と言われました。イエスさまはこの男の人が汚れているとは見ておられなかったのです。
イエスさまは、わたくしたち自身が汚れているか、汚れていないか、あるいはどうしたら清く正しく生きられるかということではなくて、神さまがわたくしたちを清め、正しい者とし、お赦しくださるのだから、その愛と憐れみに生きることこそ大切なのだと教えられたのです。
もし、自分が何か正しいことをしなければならないとか、清くなるために何かをしなければならないと思っていたり、あるいは汚れていること、罪深いことを嘆いているのなら自分で何とかしようとすることを捨てて、神さまのお言葉を聞いて、そこに溢れる愛と憐れみを受け取って欲しいのです。それは律法的な権威よりももっと素晴らしい権威ある新しい教えとしてあなたを励まし、慰め、勇気つけるでしょう。

10月13日「神の恵みの善い管理者」

ペトロの手紙一4章7節~11節

 「万物の終わりが近づいています。」大変ショッキングな言葉が語られております。一体何のことを語っているのでしょうか。新興宗教などには、万物の終わりというのは、人間の文明社会の崩壊、滅亡を意味しているのだというものがあります。このペトロの手紙が記された当時も同じように受け取られていたところがありました。テサロニケの信徒への手紙に、パウロが「怠惰な者たちに対する戒め」(2テサ3章)を語っておりますけれども、、教会の一部に「もうこの世が終わるなら真面目に働くなんてバカらしい。」と言って働きもしない者たちがいたことがわかります。

 本当にそういう時はやってくるかもしれません。物体(天体)である地球にも寿命があるそうですから、それは途方もない先のことかもしれませんけれども、起こり得ることでしょう。けれども、聖書が語っている「万物の終わり」の時というのは、そういう意味での物質の限界のことを言っているわけではありません。旧約聖書にある「ノアの洪水」や「ソドムとゴモラの滅亡」のような一時の裁きのことでもないでしょう。「万物の終わり」というのは、今は神さまの御手から離れているように見えるこの世界が、人間が好き勝手に支配しているように見えるこの世界が、もう一度、天地創造の時のように、人と神さまが共に生きる楽園となるための回復の時であり、神さまの御国の到来のことを言っているのです。

 御国の到来が実現する時、わたくしたちがそこでふさわしくあるために「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈り、心を込めて愛し合い、不平を言わないでもてなし合いなさい。」と勧められているのです。しかし、これは、わたくしたちが言われた通りにいかにしてあり続けるかが問題なのかといえばそうではないように思います。思慮深くあること、身を慎んでいること、よく祈り、愛し合うこと、不平を言わないことは大切なことです。けれども、もっと大切なのは「あなたがたはそれぞれ賜物を授かっているのですから、神さまのさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(10節)ということです。

 「管理」といいますと、イエスさまが天の国のたとえとしてお語りになられた「タラントンのたとえ」を思い起こします。主人が3人の僕にそれぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けて旅に出かけました。しばらくして主人が帰ってきてそれを清算すると、5タラントン、2タラントンを預かった僕はそれぞれ他に5タラントン、2タラントン儲けて主人に報告しました。けれども、1タラントン預かった僕はそれを地中に隠していました。そうして預かった1タラントンをそのまま返したのです。すると主人は、儲けた僕をそれぞれ褒めて喜んで、儲けたタラントンを渡しました。けれども、隠しておいた僕からは預けた1タラントンも奪い取ってしまい、叱りつけたのでした。

 この物語には損失は語られません。わたくしたちの経験で考えればもちろん損失も考えられるでしょう。けれども、神さまの恵みの賜物は損失することはないのです。「一粒の種は地に落ちて死ぬことによって多くの実りを実らせる」のです。万物の終わりの時というのは、損失の時ではありません。大いなる恵みの収穫の時です。わたくしたちに与えられた恵みの賜物は神さまのために用いられる時、損失することはないのです。もし損失するとするならば、あるいは実りをもたらさないとしたら、それは人間の業のためであり、人間の考えだからなのです。

 神さまはわたくしたちに大いなる恵みの賜物をくださいました。わたくしたちはその恵みを隠しておいたりはしません。損失なんか恐れる必要はないのです。神さまの恵みはどんどん用いられるのです。神さまがそこに大いなる恵みの実りを実らせてくださいます。恵みの主に信頼して信仰の道のりを歩む歩みの先にある「万物の終わり」の時は、崩壊や滅亡の時としてではなくて、信仰の実りの収穫を主がなさる時として訪れるのです。

 

10月6日「権威の所在」

ローマの信徒への手紙13章1節~10節

 「権威」という言葉を辞書で調べますと、①「他者を従わせる威力」、②「ある分野において優れたものとして信頼されること」という意味があることがわかります。

 「権威」は、力を持ったものが支配的に他者を従わせる力として働くのではなくて、他者に対して自発的に従うように促す力であり、それは権威を持った者が自ら権威を権威たらしめるのではなく、第三者的な視点からそれが権威として認められてはじめて権威たり得るものなのです。独りよがりな経験や知恵や肩書、そういうものに付加されるものではなくて、その存在そのものが権威を帯びるのだと言ってもよいかもしれません。ですので、権威の主体は、本質的には権威を持っている者の側にあるのではなくて、権威を与えた側にこそあると言えます。日本国憲法にある「国民主権」に似ているでしょうか。

 神さまと人間との関係においては、大きな違いがあると言えます。神さまは人間が神さまを神さまと認めなければ神さまたり得ないお方ではありません。神さまの権威は人間が認めなければならないようなものではないのです。人間の側に信仰があろうとなかろうと、神さまは厳然として神であられるお方なのです。けれども、神さまは、ご自分の権威をご自分のものとしておくだけではなくて、御子であるキリストにお与えになられ、御子キリストの体なる教会にお与えになられました。キリスト者は、この御子キリストの体なる教会の枝であるゆえに神さまの権威を持っているのです。

 今朝お読みいただきましたところで「支配者」と「権威者」という言葉が使い分けられていることがわかります。これは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」という御言葉が前提となっています。つまり、神さまの権威を知り、また、神さまの権威に従う者こそが、本当の「権威者」たり得るのであって、神さまの権威に従わない者は、たとえどんな力を持っていたとしても「支配者」でしかないということです。

 このことは他の言葉でもって対比的に語られます。それは「従う」とか「仕える」という言葉と「逆らう」とか「背く」という言葉です。これらの言葉の主語は「神さま」です。つまり、権威者に従い仕える者は、神さまに従い仕えるのであり、権威者に逆らい背く者は、神さまに逆らい背くのだということです。

 神さまはこの世にキリストの体なる教会をお建てになられて、ご自分の権威をお与えになられました。教会は神さまの権威を持っています。しかし、間違ってはならないのは、人間に与えられているのではないということです。教会に集うキリスト者たちは神さまの権威を持っていますけれども、しかし、人間の力としてその権威が与えられているのではないのです。どこまでも、神さまの権威に従う生き方において、神さまの権威が発揮されるように与えられているのです。

 神さまは何のために教会にご自分の権威をお与えになられたのでしょうか。それは、一人でも多くの人をご自分のものとなさるためでした。神さまは、ご自分の権威に逆らい背く人間をもう一度ご自分のものとなさるために、御子イエス・キリストを十字架におかけになられ陰府へ向かわせ、復活によってそこから引き上げられたのです。わたしたちは、この神さまの御心、救いのご計画に従うのです。この御心を果たすために、神さまのご計画の器として用いられるために、神さまの権威を受けているのです。

 わたくしたちの内には神さまの権威が与えられております。だから、もう信仰の弱さ、欠け、足りなさを嘆くのはやめましょう。むしろ、雄々しく信仰のみちのりを歩んでまいりましょう。神さまの権威に従って恐れることなく前進しましょう。わたくしたちが互いに仕え合い愛に生きる姿が、罪を赦され清められた者として生きる姿が、喜びと感謝に満たされ恵みの内に生きる姿が、この世に神さまの権威を証しするのです。

 

※お詫び

またまた、忙しさにかまけて、ずぼらをしてしましました。

9月分の説教要旨を一気にアップしましたのでどうぞご覧ください。

今後とも坂出教会HPをよろしくお願いいたします。

坂出教会 牧師 信太聖吾

 

9月29日「信仰によって」

ヘブライ人への手紙11章17節~22節

 お読みいただきましたところには「信仰」という見出しが付けられております。お読みいただきますとお分かりいただけますのは、そのほとんどの文章が「信仰によって」と書き始められていることです。そうして記されていることは、旧約聖書に出てくる人たちの生き方についてです。「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」つまり神さまがその人たちの人生をお認めになられたということが紹介されているのです。

 わたくしたちも様々な場面で、この「信仰によって」が問われます。日曜日に礼拝に来るか、他の用事をするか。とか、キリスト者であることを公にするかしないか。とか。けれども、大切なことは、わたしがちゃんと信仰の選択を成し得たかどうかではないように思います。自分がちゃんと信仰の選択が出来たかどうかよりももっと大切なことは、神さまご自身がわたくしたちの人生の選択を「信仰によって」お導き下さることを信じることが大切なのです。成功とか失敗とか、正しいとか間違いとか、そういうことは心配する必要はありません。人間が決めた枠を判断基準にするのではなくて、そこに確かに神さまがおられてお導き下さっていることを信じることこそが「信仰によって」ということの最も大切な事なのです。

 今朝のところにはアブラハムとイサクのことが記されております。これは親が子を殺そうとする物語です。到底赦されることではないことを神さまはアブラハムに求めるのです。もしここで神さまの求めておられることではなくて人間の判断基準を持ち込むならば、いくら神さまが求めておられるからといって子を殺すなどということはあってはならないことになるでしょう。しかし、神さまの求めておられることをそのまま成そうとしたアブラハムの信仰をご覧になられて、神さまはアブラハムにそれをさせないようにしてくださいました。

 信仰とは何かについて1節に記されております。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」この「信仰」の主語は「わたし」ではありません。「アブラハム」でも「イサク」でもありません。あなたでもわたしでもありません。ただお一人「神さま」が信仰の文脈においては主語たるお方なのです。ですからここにある「信仰によって」という文章はどれも、その主語は「神さま」なのです。だから「アブラハムの信仰によって」とは記されないで「信仰によって、アブラハムは」と記されるのです。アブラハム自身の持っている信仰ではなくて、神さまがアブラハムにお与えになられた信仰なのです。

 だからこそ「望んでいる事柄」というのは「わたしの望んでいる事柄」ではなくて「神さまが望んでいる事柄」であり、「見えない事実」というのは、「わたしが見ることが出来ない事実」ではなく「神さまがご覧になられている事実」ということなのです。神さんが望んでおられるのですから神さまが成してくださるのです。神さまがご覧になられているのですから、それは神さまの真実なのです。

 信仰に生きることによって、わたしの望みなんかよりも、神さまの望みの方がよっぽど確かで、わたしが見ていることよりも、神さまがご覧になられていることの方がよっぽど真実であることを知ることが出来るでしょう。それもまた、神さまがわたくしたちにお与えくださった「信仰によって」神さまご自身が、確かに成され、ご覧になられている事実において恵みを明らかにしてくださるでしょう。神さまが、神さまご自身によってお与えくださった信仰によってわたくしたちをお認めくださるのです。

 

 

9月22日「自分で得たパンを食べる」

テサロニケの信徒への手紙二3章6節~13節

 パウロがテサロニケの教会に宛てて記した2通の手紙で語ったことの中心にあるのは「信仰によって世の終わりの時に備えなさい」ということでした。その背景には迫害がありましたけれども、単に忍耐をもって迫害に耐えなさいというのではなくて、キリストの復活への希望によって、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と語る通り、神さまが望んでおられることを神さまが成し遂げてくださるのだから喜びと感謝の内に過ごすことが出来ることが知らせているのです。

 パウロはこの手紙の最後に「怠惰な生活をする者たちへの戒めと警戒」を記しました。たとえば、わたくしたちが苦しみの内にある友人に手紙を書く時も、「その苦しみは必ず取り去られて、慰めが与えられて、励ましが与えられて必ずまた希望の内に、喜びの内に歩み出すことが出来ますよ!」と語った後で、「でも、あなたもだからこそ頑張らなければならないよ!苦しみがなくなるわけではないのだから。」とそんな風に書くことがあるのではないでしょうか。

 パウロの思いはそういうことであったのではないかと思います。これは何も、アメとムチというようなことで書いたのではなくて、あるいは怠惰な生活を送ることはダメだ!ということを言いたかったのではなくて、愛するテサロニケの教会の人たちに励ましの思いを込めて厳しい現実について語ったのではないでしょうか。迫害はなくならないのです。なくならない迫害にただただ耐え続けなければならないのが信仰の道のりなのだというのではなくて、それは苦しみは目の前にあるように見えるけれども、その目の前のものが、わたくしたちの喜びを、希望を、感謝を失わせることはないんだということを確信しているからこその言葉なのだと思うのです。

 ここにパウロとテサロニケ教会のキリスト者たちとの深い関係が見えるような思いがいたします。パウロはテサロニケ教会の人たちを心底愛していました。そして、テサロニケ教会の人たちもパウロを愛し、その教えを守っていました。ただしごく少数ではありましたけれども、その中に「どうせもう終わりの時は近いのだろうから、まじめに働くなんてバカバカしい。」と考えていた人たちがいたようなのです。

 ここでの「働き」というのは「仕事」ということだけではないように思います。ちゃんと働きなさいということだけならば、働きたくても働くことの出来なかったやもめや病の人たちにとっては難しいことになるでしょう。ここでの「働き」というのは「仕事」ということもあるでしょうけれども、同時に、神さまから託されている教会的な使命の事も言っているのではないかと思うのです。もしそのように受け取ることが出来るならば「パン」というのは、単なる肉の糧としての食べ物ということだけではなくて、霊の糧としての「聖餐のパン」、つまり聖餐のパンを意味していると言えます。

 「怠惰な人たち」というのは仕事をしないで施しだけでパンを食べている人ということだけではなくて、神さまから託されている使命を果たすために頑張って、主に仕え、教えを守って、主の食卓に着く者たちとは対極にある者たちのことを言っているのだと思うのです。だとするならば「教えに従わないでいる」といわれているこの教えは主の教えであり、もっとはっきりと言えば、イエスさまの大宣教命令のことであろうと思うのです。そういう風に読んでよいのではないかと思うのです。

 「自分で得たパンを食べる」というのは、単にそれぞれにちゃんと仕事をして自分の食い扶ちは自分で確保するということではなくて、主の御言葉に従って、恵みを受け取って、愛を受け取って、いつでも喜びと希望の内に生きている者たちに与えられる主の食卓における聖餐のパンを頂いて、救いの確かさを受け取るということになるでしょう。一所懸命に信仰の道のりを走って、そこで与えられる恵みの食卓がここにあり、また天に備えられているのです。

 そのパンは、ただ食卓にポンと置かれているパンではありません。あなたのために割かれたあなたのためのパンです。あなたは神さまがご用意くださったこのパンを、神さまの御言葉に従って生きることによって本当にあなたのための救いのパンとしていただくことが出来るでしょう。主のために自分を献げて、しかし、主ご自身がこのわたしのためのいけにえとして十字架でその肉を裂かれ、血を流されたことを覚えて、主の道に従ってまいりましょう。

 

 

9月15日「神さまに愛されている子ども」

エフェソの信徒への手紙4章25節~5章5節

 神さまはわたくしたちをご自分の愛する子どもとしてくださいました。わたくしたちは老若男女を問わず神さまの御前に子どもとされたのです。

 神さまの子どもとして生きるということは、今朝のところの見出しにもありますように「新しい生き方」を生きることです。なぜなら、これまでの経験や知恵や、蓄えてきたあらゆる財産に頼るのではなくて、父である神さまに頼って生きることだからです。それが「神に倣う者」と言われています。

 子どもは育てた親、育った環境、その周りのあらゆるものをよく見て、感じています。皆さんも聞いたり、言ったりしたことがあるかと思いますけれども「親の顔が見てみたい」なんて言葉があります。これは子どもの言動に呆れて使われる言葉ですけれども、つまり、その子どもの問題は子ども自身の問題ではなく親の問題だということがその背後にあります。

 わたくしたちキリスト者もある意味ではないでしょうか。悪い意味ではありませんけれども、信仰に生きるわたくしたちを見た人が、「親の顔が見てみたい」と神さまを知りたいと思うかどうか…。わたくしたちの背後におられる神さまがわたくしたちを通して見えるかどうか。

 わたくしは伝道とか信仰の継承ということを考えます時に思い起こす歌があります。「蛍こい」という歌に「こっちの水は甘いぞ」という歌詞があります。これはもともと仏様のくださる水らしいのですけれども、わたくしたちの信仰の生き様が辛く、苦しいものであるならば誰もその水を飲みたいとは思わないでしょう。どんなに苦しくても、辛くても、神さまの愛と恵みを信じて、希望を持って、慰めと赦しを受けて生きる生き様の背後に神さまが見えていたら、その水を飲みたいと思わせることが出来ると思うのです。

 今朝のところにはいわゆる悪徳について記されているところがありました。「偽りを捨てなさい」「日が暮れるまで怒ったままでいるな」「悪い言葉を口にするな」「みだらなこと汚れたこと貪欲を捨てなさい」こんなことが記されております。

 こんなことばかり考えて生きなければならないとしたら、なんてしんどい生き方だろうか…。わたくしたちの日常のことを考えれば全部守るなんてことはなかなか難しいことかもしれません。けれども、子どもを見てください。偽りなんてありません。一日中怒ったままなんてことはありません。悪いことなんか言いません。そんな子どもを見ると天使のように見えるでしょう。自分で何も出来なくても、手間ばかりかかるけれども、それでもそういう子どもこそ天使のように見えるでしょう。神さまに愛されている子どもであるわたくしたちは、神さまに全く頼って生きる時、このことが出来るようになるのです。

 これらの悪徳はなんとかして回避しなければならない掟であり、ダメ!だということではないと思います。子どもを育てる時に、ダメ!ダメ!で育てますと、自信を失ったり、孤独になったり、希望を抱けなくなります。たとえ間違いを犯しても、そこに何か積極的な意味を見出して導いてあげたら、子どもは悔い改めつつ、自分を肯定することが出来るようになって、希望を失うことなく前進して行くことが出来るようになるのです。神さまもわたくしたちをそういう風にして、あれはダメ、これはダメ、お前さんはいつもこんな間違いを犯してばかりで…。なんて言ってお育てくださるのではありません。いつでも愛と赦しと恵みを注いで、いつでもそこで恵みの賜物をご用意くださって、希望を失うことのないようにしてお育てくださるのです。

 わたくしたちも、神さまのひとり子であるイエスさまがその苦難の道を喜んで歩まれて、神さまの愛をまっとうされたように、父である神さまの愛を信じて、信仰の道のりを喜んで歩んでまいりましょう。神さまの愛がありますから恐れずにわたしを神さまの御前に献げましょう。わたくしたちは神さまの子どもです。神さまは子どもであるわたくしたちを愛して愛してやまないお方なのです。

 

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