礼拝案内 / 説教集

9月8日「憐れみは裁きに打ち勝つ」

ヤコブの手紙2章1節~13節

 人は「自」と「他」を比較したり相対化して見たりします。そして優れた点、劣った点を見つけ出します。同じように「善」と「悪」や「聖」と「俗」という風に物事を区別したりもいたします。今朝の御言葉にもそういう人間の姿、わたくしたちの姿が語られています。

 「金の指輪をはめた立派な身なりの人」と「汚らしい服装の貧しい人」が教会に来たとしたら…という例が挙げられております。面白いのは、「金持ち」と「貧しい人」、あるいは「立派な身なりの人」と「汚らしい服装の人」というのではなくて、「金の指輪をしている人」は「立派な身なりの人」と結び付けられ、「汚らしい服装の人」は「貧しい人」と結び付けられていることです。

 人はどうしても、そうして身なりや持ち物、能力や経験や知識、あるいは歳をとっているとか若いとかということで比較、相対化して見てしまうのです。けれども、神さまはそういう風にわたくしたちを見てはおられません。神さまはすべての人を平等に見ておられます。「分け隔て」なさらない神さまがわたくしたちをお招きくださったにもかかわらず、わたくしたちの方で「分け隔て」をしてしまうのです。

 これは何も他者のことを言っているわけではないように思います。誰しもその内に「金の指輪をした立派な人」と「汚らしい服装をした貧しい人」を持っております。強い部分、誇れる部分が前者であり、弱い部分、隠しておきたい部分が後者です。誰も後者の部分を人に知られたくないものです。隅っこに押しやっておきたいものです。もし知られたとしても知らんぷりしておいて欲しいと願っているところがあります。

 けれども、ここにあるように、自分の弱い部分を隠しておいても、あるいは他者のそういう部分を辱めてもそれが何かをもたらすものではないことを知っているはずです。自分の優れた部分、強い部分を前面に出したところで、それはただただ自分を誇る以上のものではなくなります。他の人から見たらそういうのは鼻持ちならないと映っているかもしれません。

 神さまは分け隔てなさないお方であるばかりか、「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさった」のです。だから、立派なキリスト者になって神さまに喜ばれたいから、そういう者であろうと取り繕っても、実は神さまは弱い部分をこそ用いてくださるのです。神さまはわたくしたちのすべてご存じなのです。神さまは、微塵も分け隔てなくわたくしたちを愛し、慈しみ、お赦しくださっておられます。愛すること、赦すことが出来ないでいるのは、神さまではなくて、わたくしたち自身なのです。「隣人を自分を愛するように愛する」という律法は、先ずなによりも自分自身を愛して、赦すことなくしては全うできないように思います。弱い部分、欠けた部分があっていいのです。神さまが愛してくださって、お赦しくださっておられるのですから、わたくしたちも自分自身を愛して、赦してあげましょう。そこからこそ、本当に隣人を愛し、赦すことが出来るようになるのです。

 自分を赦すことが出来たら、愛することが出来たら、わたくしたちはどんなにか自由になるでしょうか。律法を破ってしまうということは、ただ神さまに対して、あるいは隣人に対してルールを破るということだけで起こることではないのです。自分を裁くところで起こるのです。自分を裁く者は他者をも裁くのです。「自」と「他」を分け隔てする者は、隣人を自分のように愛することは出来ないのです。自分を裁かなくてもいいのです。愛していいのです。赦していいのです。そうして自由を得ることが出来たならば、その自由は自分勝手なことに用いられることなく、むしろ神さまの御言葉に従って、喜びと感謝に生きる道筋へとつながっていくことでしょう。

 神さまの愛と赦しを自分で自分を裁くことによって無駄にしてはなりません。「憐れみは裁きに打ち勝つのです」。絶対的な裁きの力をお持ちである神さまご自身こそが、御子イエス・キリストの十字架の憐れみと愛によって、ご自身の裁きに打ち勝たれたのですから、わたくしたちも、その愛と慈しみの内に生きて、裁きに打ち勝った者として信仰の道を歩んでまいりましょう。自分を愛し、赦し、隣人を愛し、赦して御心をあらわしましょう。そこには何よりも豊かな恵みと交わりがあるのです。

 

8月25日「わたしたちは変えられます」

コリントの信徒への手紙一15章35節~52節

 コリント教会は分裂と霊的熱狂主義の中にあったといわれます。ある者は「パウロに」、ある者は「アポロに」、「ケファに」、「キリストに」と言っていたようです。また、霊の賜物を受けているからといって、みだらな行いをする者、強欲な者、偶像礼拝をする者までいたようです。パウロはそんなコリント教会へ宛てた手紙のまとめの部分で「わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことは出来ず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことは出来ません。」と書き記しました。

 コリント教会の人たちはこの言葉をどのように受け止めたでしょうか。わたくしたちはどのように受け止めるでしょうか。この50節の言葉はここだけを抜き出して読みますと大変絶望的な言葉に聞こえます。どんなに信仰深くても、不信仰でも肉に生きている以上は神さまの御国の宝に預かることが出来ないと語るからです。

 「肉と血」というのは「罪」と同じ意味で使われております。56節に「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と書かれております。「肉」は滅びるものです。つまり死ぬのです。その死は罪によってもたらされます。罪が死をもたらす力としてもっているのが律法です。律法というのは神さまとの約束事です。ですから肉においてはどんなに信仰深かろうが不信仰だろうが神さまとの約束事を守ることが出来ないので、肉は罪の存在であり、滅びるものだということなのです。

 ここでの問題は「死」そのものではなくて「罪」です。なぜなら肉に生きている以上は死は免れ得ないものだからです。死が免れ得ないものであるがゆえに死を問題にしても意味がありません。だから死を招く罪が問題になるのです。けれども、罪が分かったからといって死を免れられるわけではありません。つまり罪が分かって悔い改めたからと言って死を免れるわけではないのです。ということは、神さまがお造りになられた人間はそもそも「悪い」存在なのだろうか…ということになります。天地創造の時に神さまが人をお造りになられた時に神さまは人をお造りになられて「よし」とされたのですから人間は「善し」とされているはずです。

 「罪」というのは、そもそも神さまから離れては生きていけない人間が神さまから離れようと働くものです。神さまは御心に反することの出来る自由を人間にお与えになられました。この自由は本来神さまと共に生きるために与えられたもののはずでしたけれども、人間は肉に罪を犯させることに用いてしまったのです。だからこそ人間はもう一度神さまのものとなるように変えられなければならないのです。そうしなければ肉に働く罪のとげは消え去ることはないのです。

 肉によって御言葉を聞く時、それは命の言葉として響きません。光を放つ言葉にはなりません。だから、肉によって御言葉を聞いても救われないのです。信仰によって神さまの御言葉を聞かなければなりません。そうして信仰によって聞く時にこそ御言葉は命の言葉となるのです。

 御言葉が命の言葉となるその瞬間は「洗礼」によって起こるのです。今朝の御言葉にある「一瞬にして」ということについて、それは肉の滅びの瞬間だと説明するものがありますけれども、わたくしは違うと思います。もし、死の時こそがその時であるとするならばわたくしたちが神さまの御言葉を聞くことも信仰に生きることもなんと空しいことだろうかと思います。そうではなくて、この一瞬は洗礼の時に起こるのです。その時、わたくしたちはイエスさまを救い主として受け入れて罪に死ぬのです。そうして罪に死んで復活の命に生きるのです。

 「洗礼」は、わたしの信仰の証しともいえますけれども、もっと大切なことは本来神さまのものであったわたしが回復されるということにあります。イエスさまの十字架の死と復活を信じる信仰によって永遠の命は回復されるのです。その時、一瞬にしてわたくしたちは変えられました。それは、聖書や信仰に対する知識や時間の問題でも、立派かどうかの問題ではありません。そんなことは関係ないのです。老若男女関係なく、洗礼を受ける時それは神さまの御業として起こっているのです。その時にわたくしたちは変えられたのです。肉の滅びから解放されて、本当の自由の内に、永遠の命を抱いて生きる者へと変えられたのです。そうして神さまのものとして回復されているのです。これこそがわたくしたちの喜びなのです。

 

8月20日西日本教会青年同盟夏の献身修養会開会礼拝説教

聖書:マルコによる福音書12章41節‐44節

説教:「主が喜ばれる献げもの」

 西日本教会青年同盟では、春と夏の年2回の修養会をしております。これまで春は15回、夏は15 回、開催してまいりました。この修養会には不動のテーマがあります。「献身」です。これから、3日間、どっぷりと、礼拝の中で、祈りの中で、讃美の中で、高橋先生の講演を聞いて学びの中で、またこうして集められた方々との交わりの中で、神さまと向かい合って、御言葉と向かい合って、「献身」について学び、皆で一緒に「献身」に向かってまいります。

 今、「献身」ってなんだろうと思っておられる方がいても、不安を抱いている方がいても心配いりません。何の心配もいりません。神さまの招きに応えてここにこうして来られたこと自体が一つの献身の証しなのです。これから、3日間を過ごして、さらに献身の歩みを進めてまいります。招いてくださった神さまがお守りくださって、お導きくださいます。神さまのまなざしを感じながら、みんなで一緒に良い修養会を造り上げてまいりたいと願っております。

 さて、今、マルコによる福音書12章41節以下をお読みいたしました。「やもめの献金」の物語です。このやもめの献げる姿は、献げものをする時のお手本となると言われます。やもめというのは、夫に先立たれた女性のことです。今では女性に限らず伴侶を失った男性のことも言うそうですけれども、ここでは女性のことです。当時、やもめは大変貧しい生活を強いられました。社会的な地位も低くされて、仕事に就くことも出来なかったからです。この物語は、そんな女の人が、神殿に来て神さまの御前に献金を献げたのをイエスさまがご覧になられて、お褒めになられた物語です。

 どうしてイエスさまが献金する人たちを見ておられたのかはわかりませんが、この物語の前に、神殿で商売をしている人たちを追い払って神殿清めをされたイエスさはが「わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである」とおっしゃられておりますので神殿が祈りの家となっているかを見ておられたのかもしれませんし、すぐ前のところでは律法学者たちの偽善に対する神さまの厳しい裁きをお話になられておりますから、それを賽銭箱の前でも見ておられたのかもしれません。とにかく、イエスさまは、誰がどれくらい献金していたかということはお分かりになったようです。どうして分かったのかということについてこういう説明がありました。賽銭箱の前に祭司が立っていて、「どこそこの、だれそれさんは、いくらいくら献金しました!」と言っていたからだと。あるいは、賽銭箱と言っても、わたくしたちが知っている神社にあるような箱型のものではなくて、ラッパのような形をしていて、そこに献金を入れると音が響き渡って、多く献金するとジャラジャラジャラーンと大きな音が響き渡って、少しだとチャリンチャリンとしか音が響かない仕組みであったと説明するものもあります。

 いずれにしても、たくさん献金して、それが知らされたり、音が響いたりすると、周りの人たちが「おおー!」なんて言って、気持ちが良かったかもしれませんね。お金持ちたちは自分を誇るために競うようにして多くの献金を献げたかもしれません。そういう中にこのやもめがいました。彼女の献金は2レプトンでした。レプトンというのは最小単位のお金です。日本の最小単位のお金で言えば2円ということになるでしょうか。たった2円の献金です。賽銭箱の前に立っている人は何も言わなかったかもしれませんね。賽銭箱もカランコロンと響かなかったかもしれませんね。だからこのやもめのことは誰の目にも留まらなかったのでしょう。けれどもイエスさまはこのやもめに目をお留になられたのです。そして、その献げる姿をお褒めになられたのです。

 でもね、わたくしなんかすぐにこう思っちゃうんです。「いやいや、イエスさま、生活費全部っていいますけどね、2円じゃ生活なんて出来ませんよ。20円だって無理です。だから彼女はどうせ持っていても仕方がないから、半ばやぶれかぶれで全部放り投げたんじゃないんですか?って。だって、やっぱり有り余るほどの中からであったとしてもたくさん献げられた方がいいじゃないですか。どうせ持っていても仕方ないものを献げられるよりもその方が役に立つじゃないですか?2円なんて何の足しになるんですか?」と、そう思っちゃう。

神さまに献げものをするなら大いに役立つような献げものをした方がいいに決まっている。誰よりもたくさんを、誰よりも優れたものを、誰にも真似できないようなことを、そういうものを神さまのために献げられた方が、神さまもお喜びになられるに違いない。役に立たないようなものなんか要らない。ちょっとなんていらない。そんな献げものをするのは、そもそも恥ずかしいし…。そんなことを考えたりすることがないでしょうか。

 時々、わたくしたちは、神さまの眼差しの中でではなく、神さまのお心に聞くこともしないで、神さまがお喜びになられるのはこれに違いないと勝手に決めつけてそんな風に考えてしまうことがあるのです。より立派なもの、よりたくさんのもの、より役立つもの、そんなことを自分で決めつけて、そうに違いないと思いこんでいることがあるのです。だから反対に、こんなものは何の役にも立たない。ちっとも立派じゃない。喜んでもらえない。そういう風に考えることもあるのです。そんな時、わたくしたちは、神さまのお心ではなくて、神さまのお声ではなくて、その慈しみの眼差しではなくて、人々の称賛の声や驚く声、あるいは自分が納得したり満足することを気にしているのではないだろうか…。神さまのためと言いながら、これがイイとかこれはダメとか、十分だとか足りないとか、役に立つとか立たないなんて言って、自分を誇る時や、自分を恥ずかしいと思う時があって、そんな時、すべてを見抜いておられる神さまの眼差しがあることを忘れていることがないだろうか。

 イエスさまは、やもめの献金をご覧になられて「誰よりもたくさん入れた。」とおっしゃいました。イエスさまがおっしゃられた「たくさん」というのは、たったの2レプトンでしたけれども、だからこそこの「たくさん」が、いわゆる「量」のことではないことはすぐにわかると思います。あるいは献げられた献金そのものの「質」でもありません。つまり、有り余ったものの中から献げられたものなのか、無いものの中から献げられたのか、そういうことでもありません。もちろん、イエスさまは、皆は有り余るものの中からで、このやもめは乏しい中からすべてを献げたとおっしゃっておられますから、それは大切なことなのでしょうけれども、でもだからと言って、居直るようにして「じゃぁ全部献げればいいんでしょ!」なんて言って献げたってそれは意味のないことだろうと思います。

 イエスさまが見ておられたのは、そのまなざしが捉えていたのは献げものの量や献げものそのものの質ではありませんでした。あるいは、夫に先立たれた哀れさとか、貧しさとか、社会的な地位とか、何を持っているか持っていないかとか、そういうことを見ておられたのでもないのです。イエスさまが見ておられたのは、その眼差しが捉えていたのは、このやもめその人自身です。その心の内です。信仰です。だから、このやもめもやぶれかぶれで献げものをしたのではありませんでした。信仰によって、ないもののなかから献げることが出来たのです。

 イエスさまが見ておられるのは、わたくしたちの持っている何かではないんです。わたくしたち自身を見ておられるのです。わたくしたちは、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない空の鳥よりも価値あるものとされているのです。働きもせず、紡ぎもしない野の花よりも尊い存在とされているのです。そういう「わたし」をイエスさまは見ておられるのです。

 皆さんは神さまにお祈りすることが出来るでしょう。讃美の歌を歌うことが出来るでしょう。誰かを、大勢の人でなくとも、愛することが出来るでしょう。何よりも皆さんは神さまに愛されているでしょう。そうして神さまに愛されているのだから、わたしが何か持っているとするなら、お金だっていい、能力だっていい、他の何かであったっていい神さまに献げることが出来るのです。いや、お金なんか持っていなくたっていいんです、能力がなくったっていいんです、他に何も持ってなくったっていいんです、何を持っていようと持っていまいとそんなことによって神さまはわたしを見ておられないのですから、わたし自身を神さまの御前に献げることを神さまがどれほどお喜びになられるか、その神さまの喜びがどれほどわたくしにとってかけがえのない宝になるか、みなさんにはそういうイエスさまの眼差しが向けられていることを知って欲しいのです。このまなざしの中でこそ、わたくしたちはないものの中から献げることが出来るようになるのです。

 このやもめが、イエスさまが献げる姿をご覧になられて、お褒めになれたことを知ったかどうかはわかりません。けれども、わたくしたちは知っています。わたくしたちが持っている何かによってではなくて、わたくしたち自身を、神さまの御前に献げる姿をこそお喜びくださることを知っています。3日間の修養会を通して、主は、あなたがあなた自身を主の御前に献げる姿をお喜びくださることを確かに受け取りたいと思うのです。

 

 

8月18日「わたしは希望を持っています」

ローマの信徒への手紙8章18節~25節

 今朝の御言葉は「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」と語ります。さてわたくしたちの「希望」とは何でしょうか。たとえば、床屋さんや美容室にいって「ご希望は?」と尋ねられたら「前髪はこうして、後髪はこうして…」と言うでしょう。服屋さんに行って「ご希望のものは?」と尋ねられたら「明るい花柄の服です」なんて答えるでしょう。「希望」という言葉を辞書で調べますと「好ましい事物の実現を望むこと」とあります。自分が望んでいるもの、自分の欲求が満たされるために必要なもの、これがいわゆる希望なのだそうです。

 けれども聖書は「見えるものに対する希望は希望ではありません。」と語ります。ということはキリスト者であるわたくしたちの希望というのは目に見えないものなのだろうか?と思います。目に見えるものといわれているのは、言い換えるならばこの世のもの、あるいは人間的な欲求と言えるでしょう。そういう希望は希望なんかじゃないから持ってはならないということを言っているのでしょうか。わたくしはそうは思いません。ここで聖書が語っているのは、そういうこの世的な、人間的な希望を持ってはいけないということではないと思うのです。

 わたくしは、この世的な、人間的な、見えるものに対する希望を持つことは大切なことだと思っています。そういう希望を持っていたら人生がキラキラ輝いて見えるでしょう。希望に向かっているならば何があっても前進して行くことが出来るでしょう。一所懸命になれるでしょう。何にしろ希望を失ってしまったら生きる喜びを失うことになると思うのです。それはこの世的なもの、人間的なものです。きっと神さまが御言葉を通してお語りになられている希望もそういう希望のことを言っているのだと思うのです。何も高尚な希望のことではなくて、もっと目先のこと、足元のこと、そういう希望のことを言っているのだと思います。

 けれども、大切なことはそうして持っている希望があなたを救うのではないということです。そういう希望の背後におられるお方こそがあなたを救うことの出来るお方なのだと言うことを忘れてはならないということです。そのお方こそがすべてのものをお造りになられ、すべてをご支配なさっておられるのです。あなたの目に映るすべてのものがこのお方の御手の内にあるのだということを忘れてはならないのです。だからこそ、見えるものに対する希望は希望ではないと言われているのです。

 この世のすべてのものは滅びへと向かっています。永遠の命の源なる神さま以外はいずれなくなるのです。だからこそこの永遠なる神さまがわたしと共におられるのなら、もはや目に見えるものに希望を置かないでも心配することがなくなる。目に見えるものにとらわれないで、しかし目に見えるものの内におられるお方を見ることが出来るようになる。そこにこそ本当の希望があることを知ることが出来るようになるのです。

 皆さんの中で、目に見えるものに対する希望を持っておられる方があるならば、自分の力で何とかそれを手に入れようとするのではなくて、まず神さまにお願いしたらよいのです。神さまが必ず整えて備えてくださいます。時には願っていないような仕方でそれは与えられるかもしれません。けれども、神さまの御心にかなったものであることを知って、十分に喜びと感謝を持って受け取ることが出来るようになるでしょう。目に見えるもの、この世のもの、人間のものは、わたくしたちの人生の喜びになるかもしれないし、希望になるかもしれないけれども、それがわたしの救いにはならないのです。この救いが分からなければ目に見えるものに対する希望は希望ではなくて単なる欲望へと変わってしまうのです。そうすると渇きが癒されることがなくなって、一向に救いの喜びを味わうことが出来なくなるのです。

 わたくしたちは希望を持っています。それは、すべての造り主なる神さまが共におられる確かさの内にある希望です。この希望を持っていさえすれば目に見えるもののうちにも神さまの大いなる希望を見出すでしょう。この世のすべてを望みつつ、しかしその内におられ、救いへと導く賜物として用いてくださる、そういう希望の内に生きることが出来るのです。この世のものを、人間のものを越えて、その先にある救いへの希望こそが本当のわたくしたちの希望なのです。

 

 

7月28日「悔い改めた者‐サウロ‐」

使徒言行録9章26節~31節

 使徒であり異邦人伝道の第一人者であるパウロは、回心する前はサウロという名前でした。サウロはユダヤ人であり、熱狂的な律法主義者でした。それゆえ彼のキリスト者に対する迫害は激烈ともいえるものでした。男女問わず脅迫し、捕え、縛り上げて、エルサレムへ連行し、尋問して死刑判決を与えたのです。どれほどのキリスト者が彼の手によって死刑へと向かわされたかわかりません。言うなれば彼は大量殺人の手引きをしたのです。

 そのサウロが回心したのです。どんな信仰的な大義名分があろうとも、大勢の人を死へと追いやったことは赦されるものではありません。サウロは自分がまるで神のようになってその正義を振りかざして神さまに敵対していたのです。そのサウロが回心したのです。しかも、迫害していた信仰へと回心したのです。それはサウロの人生が、これまでの生き方の正反対の方向へ転換したということです。真逆へと裏返ったのです。

 回心というのはそういうものだと思います。単に考えが変わったとか、信じるものが変わったというものではありません。考えが変わったからと言って生き方が変わらない人もいるでしょう。信じるものが変わったからと言って自分の存在自体が変わらない人もいるでしょう。しかし、本当の回心というのは、生き方がぐるりと変わるのです。自分の存在自体が変わるのです。それは、人間の知恵や経験、その他どんな人間的な力でも起こり得ないものです。たとえそれが劇的なものであれ静的なものであれ、回心はまったく神さまの御業としてなされるのです。

 回心において神さまがなしてくださる御業は「赦し」です。回心は裁きの恐ろしさによって起こるのではないのです。律法主義者たちの生き方、これまでのサウロの生き方はまさに裁きの恐ろしさによって保たれていたと言えるでしょう。けれども、回心はそうではなくて、人間的に見ればとても赦されるものではないほどの罪が赦されることによって起こるのです。イエスさまの十字架の御業がすべての人の罪の赦しであったように、イエスさまを救い主と信じて信仰に生きる者は、その赦しの中に生きることになるのです。この赦しの中に生きるようになることが回心なのです。

 神さまはキリスト者を迫害するサウロに言います「サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」と。神さまを迫害すること以上の罪はないでしょう。そう考えますと、わたくしたちが日々犯す罪などちっぽけに思えます。サウロがやってきたことを考えますと、神さまの赦しの中に入れられない人などいないことがよくわかります。キリスト者を迫害し、神さまを迫害し、人を死に追いやるほどの罪を犯したサウロでさえも赦されて回心するのです。信仰に生きているわたくしたちは、そういう神さまの赦しを受け取っているのです。もちろん、悔い改めをしなくてもいいということではありません。もう罪なんか犯さなくなったということではありません。でも、罪を犯さないように、悔い改めが少なくて済むように考える信仰よりも、自分は罪を犯してしまう、悔い改め続けなければならないことを認めながら、しかし、神さまのまったき赦しを信じて、イエスさまの十字架を信じて生きる方がよほど神さまの御心にかなった生き方と言えるのです。

 サウロの回心のために神さまがなさったことが、彼の目を見えなくするものであったことは注目すべきところであろうと思います。サウロは三日も飲み食いが出来ませんでした。目が見えなくなることによって自分の命を保つための食事をすることが出来なくなったのです。「人はパンだけで生きるのではない。神さまの御言葉によって生きる」というイエスさまの御言葉を思い起こします。目が見えなくなって、自分の命と向き合わなければならなくなって、食事によってではなく、あるいは自分の生きがいによってではなく、知恵や経験やその他人間的な何かによってではなく、ただ神さまの御手の業によって生かされていることを覚えたのです。

 エルサレムにいた弟子たちの何人かは、こうして回心したサウロをはじめは受け入れることが出来ませんでした。それはよくわかります。けれども、この時弟子たちが見ていたのは、サウロのことであって、その背後に働いておられる神さまのことではありませんでした。神さまに出来ないことはないということを信じることが出来ていれば、悔い改めたサウロを受け入れることが出来たはずです。弟子たちの中には、そうしてサウロを受け入れた者たちもいました。神さまの赦しにとって人間の罪の大小など問題ではないのです。問題は、神さまの赦しによって、あなたの存在自体がすでに変えられていることを受け取るかどうかです。自分に頼る生き方から、神さまを信じる生き方へと転換するかどうかです。

 今朝わたくしたちは改めて神さまの赦しの寛容さ、寛大さを知りました。悔い改めにふさわしい者などないと同時に、誰もが神さまの御業によって赦されており回心させられるのです。神さまがわたくしたちを造り変えてくださいます。赦された者として愛と慈しみの内に置いてくださっています。今日この時から、すべてが神さまによって赦され、恵みとして備えられていることを信じて信仰の道を歩み始めたいと思います。

 

7月21日「今や恵みの時、今こそ救いの日」

コリントの信徒への手紙二5章14節~6章2節

 パウロが第二コリント書を書いたのは紀元55年と言われております。二千年あまり「今や、恵みの時、今こそ救いの日」という主の御言葉は語り続けられ、聞き続けられてきました。平和な時代、豊かな時代であればそのまま受け入れられたでしょうけれども、迫害の激しい時代、戦争などで混乱した時代、天変地異が起こった時にはどのように聞かれてきたのだろうかと思うのです。

 人間の歴史を振り返りますと、いつでも、どこかで戦争が起こり、天変地異が起こり、「今や、恵みの時、今こそ救いの日」という御言葉がそのままに受け入れられてきたようには思えないところがあります。それでも教会は、キリスト者たちはこの御言葉を語り続け、聞き続け、信じて歩んできました。

 現代の日本ではどうでしょうか。社会においては、少子化、高齢化、経済の停滞、人口の都市への集中と地方の過疎、あまり良い時代とは言えないところがあります。教会においては、信徒の減少、進まない伝道、献身者や牧師が足りない、こんな声があちこちから聞こえます。そうして、今こそ恵みをください。今こそ救ってくださいという声が聞こえてきそうです。

 あるいは個人としてはどうでしょうか。最近、辛いことや苦しいこと、悲しいことがあった方がおられるでしょう。そういう中でこの御言葉はどのように響くでしょうか。今まさに恵みの時である、救いの時であるというのではなく、それをこそ願ったのではないでしょうか。

 では、この御言葉は、今の時代においては、何とか解釈して聞かれなければ届かないものなのでしょうか。今は恵みの時ではなく、一層恵みを求める時、今は救いの時ではなく、一層救いを求める時なのでしょうか。

 神さまは、いつの時代でも、どんな状況でも、同じように、「今がその時」なのだとお語りになられてきました。もしわたくしたちが、今の時代を思い、そこで起こったことや、置かれた状況の中でだけこの御言葉を聞くとするなら、今はまだその時ではないから、早くその時になるようにと祈らざるを得ないかもしれません。けれども、そういうことに左右されないで、揺るがせられないで、ただひたすら神さまの恵みを信じて、救いを信じて、信仰に立って聞いたならどうでしょうか。今がまさにその時であることを見ることが出来るはずです。

 わたくしたちは信仰に立って、いつでもどんな時でも、「今がその時」なのだと告白します。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」わたくしたちはイエスさまの愛によって「駆り立て」られているというのです。後ろから支えられて、前へと前進させられているのです。それは、滅びへ向かっているのではありません。どんどん推し進められて、恵みへと救いへと向かっているのです。しかも、それは遠い遠いところにあるのではなくて、今という時にそれが与えられているのです。

 今日新しい朝を迎えました。このことがすでに「今や恵みの時」であることを証ししています。主の恵みなしに新しい朝を迎えることは出来ないのです。わたくしたち自身にその保障はないのです。主は明日をも備えてくださるでしょう。それは救いなしには得られないものなのです。ですから昨日の明日である今日を迎えられたのは紛れもなく救いが成し遂げられたからなのです。

 パウロはこのことを神さまとの「和解」だと語ります。これは神さまの方から成し遂げてくださったものです。しかも、こちら側には何の根拠もないのに、ただひたすら神さまの愛と恵みにおいて成し遂げられたものなのです。

 もし、今日何かあったとしても、明日何かあったとしても、わたくしたちは命の主であり、救いの主である神さまと和解しているのですから、何も恐れることはないのです。このお方はすべてをお造りになられ、すべてをご支配なさっておられるお方だからです。今この時、わたくしたちはまったき恵みの内に置かれています。まったく救われているのです。神さまの愛の中で、その恵みを受け取り、救われた者として生きる幸いを味わうことが出来るのです。

 

 

7月14日「わたしたちは憐れみの器」

ローマの信徒への手紙9章19節~28節

 パウロの心には深い悲しみがありました。絶え間ない痛みがありました。それは、肉による同胞、つまり、古いイスラエルの民、ユダヤ人たちのことがあったからです。

 イスラエルの民は、神さまに選ばれた民です。神さまの御言葉も、約束も自分たちのものでした。だからこそ、神さまがくださった律法を守って生きることが、神さまの御言葉、約束が成就する道と信じていたのです。いつか救い主が現れて、神さまの王国をお造りくださって、そこに住む。民族を挙げて、歴史を挙げて、その時を待ちつつ律法を守って生きてきたのです。

 けれども、待てど暮らせどその時は来ないのです。彼らは、もしかして神さまはご自分のお言葉をお忘れになられたのだろうか…。約束をお忘れになってしまったのだろうか…。その効力は失われてしまったのだろうか…。そう考えるようになりました。まるで、神さまからの責めを受けているようなそんな苦しみの中にいたのです。

 パウロは、そんなイスラエルの民が抱えている痛みを知っていました。だからパウロ自身も悲しみを抱き、痛みを覚えていたのです。けれども、パウロは知っていました。神さまは約束をお忘れになられたのではなくて、御子イエス・キリストの十字架によって、すでに完成されたのだということを。すべては御言葉通りに成し遂げられたのでした。

 イスラエルの民、ユダヤ人たちにとって、それは受け入れ難いことでした。自分たちが十字架にかけて殺したあのナザレのイエスが救い主であるはずがない。新しいイスラエルなど認められませんでした。けれども、大勢のユダヤ人たちがキリスト教に改宗していきました。パウロにいたっては律法に生きていた頃のことを塵、芥とさえ言いました。それもまたイスラエルの民にとって聞き捨てならないことでありました。

 パウロはこのローマの教会へ宛てて書いた手紙で「では、どういうことになるのか。」「では、~であろうか。」「いや、決してそうではない。」という風に繰り返し語ります。それはそういう者たちの心の声、心の問いを引き出して、丁寧に語り直して、神さまの御言葉を伝えるためでした。神さまは確かに約束を果たされたのだということを伝えるためでした。

 けれども、それに対してまだ憤りを覚えている者たちがいました。そのような人たちに対してパウロは「人よ、神に口答えするとは何者か。」と厳しい口調で語ります。しかし、パウロは神さまの御心と御言葉を信じないで、御業を受け入れない者たちの信仰の有り様を、神さまに代わって責めているのではありません。

 神さまに対するまったき信頼を持って、その御言葉に従って生きるならば、自分の人生、自分の歴史、その他あらゆる自分を形造り、造り上げているものを自分で肯定しようとしなくても、神さまにお委ねした方がよほど自分のことが分かるようになるのです。人間の側に神さまの救いの確かさを確保しておきたいと思う者たちに対して、救いの確かさはまったくもって神さまの側にあることを伝えているのです。

 それで、パウロは造り主である神さまを焼き物師に例えて語りました。自分が何者かを自分で探したり、造り上げるのではなく、自分をお造りくださった方を知る方が大切なのです。神さまはわたくしたちを至らない者、足りない者としてお造りになられたのではありません。ご自分の恵みを注ぎ、憐れみで満たす器としてお造りくださったのです。わたくしたちは神さまの恵みと憐れみを満たす器としてその中を空っぽにしておかなければなりません。自分を空しくして、その内側を神さまによって恵みで満たしてもらうのです。

 神さまはすべてのものをお造りになられ、そのすべてを良い物としてわたくしたちにくださるのです。わたくしたちはその良い物を入れる器として造られたのです。だからこそ、わたくしたちの内からはいつでも神さまの恵みがあふれ出てくるのです。人間的なものによってではなく、お造りになられた神さまの御手の業によってなされるのです。

 

 

7月7日「主の御言葉の力」

使徒言行録19章11節~20節

 20節に「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」とあります。パウロがエフェソなどアジア州でなした伝道活動の成果が目覚ましいものであったことについて語られています。大勢の人たちが信仰に生きるようになりました。

 パウロはどんな伝道をしたのでしょうか。そのことについて、神さまは、「パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。」と記されております。どんな奇跡かと言いますと、「パウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気は癒され、悪霊どもも出ていくほどであった。」と記されております。

 わたくしもよく頭にタオルを巻いているのですけれども、素直に思います。「神さま、僕にもそういう奇跡が出来るようにしてください。頭に巻いたこのタオルを持って行ったら病が癒され、悪霊が追い出されるような、そんな奇跡が出来るようにしてください。」と。

 パウロのそのような業を見て同じように思った人たちがいました。ユダヤ人祭司長スケワの7人の息子たちです。彼らもまた試みにイエスさまのお名前を唱えて悪霊を追い出そうとしていました。何とかして奇跡を起こせれば自分たちも敬われ、多くの人が教えに従うと考えたからであろうと思います。

 しかし、彼らの目論見は思惑通りに行きませんでした。それどころか、悪霊は彼らに言い返しました「イエスのことは知っている。パウロのことも知っている。だが、お前たちは何者だ。」と。悪霊は彼らのことをちっとも怖がりませんでした。かえって彼らをひどい目にあわせたのでした。どうしてスケワの息子たちは奇跡を起こすことが出来なかったのでしょうか。わたくしたちの伝道が思うように進まない問題もここにあるような気がするのです。

 神さまに奇跡を求めるということは大切な信仰の証しです。けれども、試みにイエスさまのお名前を語ることは赦されないことなのです。ですから、伝道は、そういう意味で言えば、奇跡が起こったらいいなぁとか、奇跡が起こらなければ進まないなどというところでは前進しないのです。試みになされる伝道は前進しないのです。

 伝道において大切なことは御言葉の力を心底信じる信仰です。伝道の源泉はわたくしたちの力ではなく、神さまの御言葉の力にあるのです。パウロの伝道がなぜ前進したのかと言えば、それはひとえにパウロが自分の何かによってではなく、ひたすら御言葉の力に委ねたからでした。そして、御言葉こそが力を持って伝道を前進させることを信じ切っていたからでした。パウロの伝道に奇跡は必要でしたけれども、その奇跡は神さまの御言葉の力としてなされるものであって、けっして、自分の手ぬぐいがおこすものではなかったのです。

 伝道の源泉である御言葉は、今ここで語られています。この礼拝において神さまの御声を聞くことによって、わたくしたちは伝道の力を得るのです。しかも、御言葉を聞いてわたくしたちが何かを得るのではなくて、御言葉を聞いて、もうまったく御言葉にこそ力があることを知ってそこから始まるのです。それが、わたくしたちの礼拝なのです。

 伝道の前進のために何でもしましょう。自分たちであれやこれやの判断をせずに、試みに伝道をするのではなくて、確かな信仰によって、神さまを信じ切って、そこに必ず恵みが注がれることを確信して、希望を持ってなしてまいりましょう。主が御言葉を持って、わたくしたちの祈りを聞き届けてくださって、奇跡をなさることを信じましょう。わたくしたちが、主の御言葉の力を信じ切って出かけて行く先で、神さまはご自身の御手の業を働かれ奇跡を起こしてくださるのです。

 

 

6月30日「伝道の喜び」

※6月30日は「分区デー」講壇交換日でした。その際に、週報裏の説教要旨欄に記載した記事です。

 「伝道」の目標は何か?それは「洗礼」です。受洗者が与えられるということが伝道の目標です。これははっきりとしています。イエスさまの大宣教命令があります。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ28:19-20)これが伝道の目標です。

 このように伝道の目標ははっきりしているのです。けれども、伝道の出発点については、少しぼんやりしているところがあるのではないかと思うのです。どこから、何から、伝道を始めたらよいのだろうか…。実は伝道の出発点もはっきりしているのです。それは「信仰」です。言わずもがな、信仰なしに伝道が始まることはないのです。では、信仰の何が伝道を起こすのか…、それは信仰がもたらす「喜び」です。

 伝道の出発点となる「信仰」において、確かにわたくしたちキリスト者がいかに信仰に生きることを喜びとしているかということが問われます。そういう意味で、これから伝道をするキリスト者が、信仰に生きる喜びに生きていなければ伝わらないのです。けれども、ここで気を付けなければならないことがあります。それは、ただ単に、わたしが喜んでいるかということ以上に、伝道の目標にある喜びを思い描いているかということです。具体的に、あの人が洗礼を受けて信仰に生きる喜びを受け取るということを、自分の喜びとして思い描いているかどうかということです。あるいは、こういうことをしたら福音を信じて受洗者が与えられるという喜びを思い描いて伝道をなすかということです。

 わたくしたちが伝道を始めようとする時、多くの場合、何をしようかと考えるでしょう。そうして、伝道集会やバザーやコンサートの開催やトラクト配布や路傍伝道などを考えます。その時、どの程度の規模で、どんな時期にそれらは実施可能であるかを考えるでしょう。けれども、そこでしていることは、自分たちの実力を量るということではないだろうか。そうして、これは出来る、出来ないを考えるのではないでしょうか。そこにあるのは実は神さまの恵みに対する疑いと言えるかもしれません。何もなくても踏み出せば神さまが備えてくださるということではなくて、自分たちの考え通りに、思い描いた通りにことが起こるかどうかを考えているのではないでしょうか。

 伝道の出発点になる「喜び」は、わたくしたちの実力の範囲内にあるものではありません。神さまが備えてくださる大いなる恵みの内にあるのです。聖書を開きますとはっきりとわかります。イエスさまが伝道活動をなさった時、病が癒された人たち、悪霊を追い出してもらった人たち、徴税人や罪人たち、彼らは喜んでイエスさまのことを人々に伝えました。彼らが持っていたものはなんでしょうか。何もありません。ただ主からの憐れみを受けただけでした。その喜びだけでした!一方、イエスさまは故郷のナザレの人たちの不信仰によっては奇跡をなすことがお出来になりませんでした。なぜなら疑いだけで喜びがなかったからです。

 使徒たちも同じでした。特にパウロはどんな境遇に置かれても信仰の喜びの内に生きた人でした。自分の喜びではありません。キリストが宣べ伝えられていることへの喜びです。その宣べ伝えられたキリストご自身が伝道の業の上に大いなる恵みをお注ぎくださったのです。彼らが見たものは、自分たちの実力をはるかに超えて注がれた神さまの恵みでした。それこそが彼らの大いなる喜びでした。それは何よりも主の御言葉の力そのものがなした奇跡でした。

 伝道の出発点は、あるいはその道のりは、わたくしたちが考えて、実行して、そうして達成して得た成果の内にももちろんあるでしょうけれども、それ以上に神さまが注いでくださる大いなる恵みをあなどってはならないと思います。神さまは、わたくしたちが伝道の先に神さまが大いなる恵みを注いでくださって、そこに喜びをもたらしてくださることを信じるならば、たとえそれがどんなことであろうとも必ずご自分の御業となさるのです。伝道する時は、時代や、自分たちの実力を測ったり、それを憂うのではなくただ恵みを信じて喜んでなすのです。主がなしてくださることを信じて、何でも、恐れずに、前進していくのです。

 

6月23日「バルナバ‐慰めの子‐」

使徒言行録4章32節~37節

 今朝の箇所にはレビ族出身でキプロス生まれのユダヤ人ヨハネが出てまいります。彼は「バルナバ‐慰めの子‐」と呼ばれていました。バルナバは、パウロの回心を疑った使徒たちと違って、それをそのまま受け入れました。さらに、財産をす べて売り払って使徒たちに差し出しました。

 バルナバについて記されているところがいくつかあります。使徒11章には、彼が教会からアンティオキアに派遣され、そこで神さまの恵みを見て喜び、主から離れることのないようにと人々に勧めたとあります。そして、バルナバは立派な人と認められており、聖霊と信仰とに満ちている人物でした。多くの人がバルナバによって主へと導かれました。

 また、使徒言行録13章から15章には、パウロとバルナバの伝道について記されております。様々なところに出かけて行って伝道したことがわかります。さらに第一コリント9章に「使徒の権利」という見出しのつけられたところにもバルナバの名が出てまいります。つまり、使徒の一人に数えられていたということです。

 しかし、わたくしたちが見るべきところは、バルナバがいかに立派な人物であったか。使徒としての権威がどれほどのものであったか。あるいは、その人となりではありません。もちろんそれも大切なことでしょうけれども、もっと大切なことは、このヨハネが「バルナバ‐慰めの子‐」と呼ばれたことです。その根拠についてはどこにも記されておりません。

 バルナバは、おそらく、確かに優しい人で、愛に満ちており、行いにおいても、言葉においても申し分のない人だったのでしょう。知恵においても、この世の宝においても多くの賜物を与えられていたであろうと思います。けれども、だからバルナバと呼ばれていたのかと言いますとそれだけではなかったであろうと思います。

 バルナバは誰よりも主の慰めを豊かに、また深く受け取っていたのでしょう。そして、彼自身がそうして主の慰めのいかに深いものであるかを証ししていたのであろうと思うのです。彼の行いや言葉がいつも主の慰めに満ちていたのだと思うのです。そういう点で、バルナバはパウロとは違った仕方で伝道に用いられたのだと思うのです。誰もがバルナバと接し、その語る言葉を聞き、その行いを見て、そこに主がいかに慰め深い方であるかが見えたのであろうと思うのです。

 先週「慈善の業」と「奉仕の業」について御言葉をお聞きいたしました。主ご自身が誰よりも低くへりくだられて世に来られ、命をお捨てになられた。その主のへりくだり、貧しさによってわたくしたちは恵みを受け、その恵みから良い業が生み出されることをお聞きいたしました。

 バルナバもそうして主の慰めのもとに自分のすべてを献げたのです。けれども、そうして自分のすべてを献げたのはバルナバだけにとどまりませんでした。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」とあります。バルナバの信仰がそうして人々を献げる信仰へと導いたことは確かでしょう。それは、自分たちの教会の豊かさのためではありませんでした。いや、もっと言えば自分たちの教会の豊かさは、使徒たちが語る御言葉によって生み出されることを信じて、使徒たちに対して献げ物が献げられたのです。

 一人も貧しい者がいないというのは、誰もがお金持ちになったということではありません。献げる貧しさは主の貧しさに預かることです。それが豊かさとなったのです。それが生み出されたのは、御言葉によって、主の憐れみによって、皆の思いと心が一つになったからでした。

 主がわたくしたちの思いも心も一つにしてくださいます。こんなにもバラバラで、それぞれに違いを持ったわたくしたちが一つになるのにこの世の何かでは出来ないのです。ただ主こそがわたくしたちを一つにしてくださるのです。聖餐の序詞にもキリストにおいて一つとなると言う言葉があります。そうなのです。主がわたくしたちを一つにし、慰めに満ちた共同体をお造りくださいます。その主の慰めに預かり、御言葉に生きてまいりたいと思うのです。

 

 

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