Daily Archives: 2017年8月25日

8月6日「すべての人が満腹した2」

マルコによる福音書8章1節~10節

以前イエスさまは5千人以上の人たちに5つのパンと2匹の魚ですべての人を満腹させました。今回は、4千人の人たちを7つのパンと少しの魚で満腹にさせました。以前の奇跡はカファルナウムでなされました。カファルナウムはユダヤ人の住む土地です。今回はデカポリス地方という異邦人の住む土地での奇跡でした。

 注解書を開いてみますと、この二つの物語は元々一つであったという説明がありました。元々一つであった物語をユダヤ人たちへの奇跡と異邦人たちへの奇跡という風に二つに分けたのだというのです。カファルナウムでの奇跡の際、残ったパンは十二の籠になりました。これはイスラエルの十二部族を示しているそうです。また、今回は残ったパンは7籠でした。これは当時、世界は7つの民族で成り立っていると考えられていたことからきたものだそうです。このようにして神さまの恵みがすべての人に与えられることをマルコは記したのです。

 この物語において大切なことは、実は、神さまの恵みはすべての人に与えられるのだということだけではありません。もう一つ大切なことがあります。それは、弟子たちの姿にあらわされているように、人間は神さまの恵みを受け取ってもすぐに忘れてしまうことがあるということです。神さまの御業に対する人間の無理解です。この物語の弟子たちはカファルナウムで起こった5千人以上の人たちが満腹した奇跡をすっかり忘れてしまっているように見えます。

 弟子たちは本当にあれほどの奇跡をすっかり忘れてしまっていたのでしょうか。わたくしはそんなことはないと思うのです。ただこの時の弟子たちの状況がそれを思い出せないようにしていたのだと思うのです。つまり、弟子たちは異邦人の土地で伝道して大きな成果をあげたからです。ギリシア人の女性の娘から悪霊を追い出し、耳が聞こえず、舌が回らない人を癒し、今は4千人もの人たちが3日間も一緒にいてその教えを聞いて従って来ていたのです。まさに伝道絶好調でした。弟子たちはある意味、自分たちの伝道の成果に酔いしれていたのではないでしょうか。それで、もうすっかり満足してしまって従って来ている人たちのために恵みを求めることを忘れてしまっていたのではないかと思うのです。

 これが弟子たちがはまった落とし穴でした。そしてこれがイエスさまに対する無理解になったのです。イエスさまは弟子たちに力を与えられて有能な弟子を育てられたのではありません。ただ神さまの御業を担う働き手にされたのです。それを弟子たちは勘違いして自分たちの能力はすごいと思ってしまっていたのではないでしょうか。どんな所に行っても成果を上げられる。現に目の前に4千人もの異邦人たちがいる。こんなに成功を収めている。そう思ったのではないでしょうか。ですから、この後、誰が一番偉いかという議論さえするのです。

 イエスさまが望んでおられるのは神さまの御業を担う働き手として仕える者です。それは、自分がどういう能力を持ち、それを発揮するかということではなくて、恵みを求めている人たちに対して神さまの恵みの執り成し手となることです。食べる物がない人たちのために食べ物を求め、配る者。励ましや慰めを求めている人たちには神さまこそが慰め主であることを証する者になることを望んでおられるのです。わたくしたちの満足は自分が立派な人間になることではありませんし、自分だけが神さまの恵みを受け取ることではありません。すべての人と恵みを分かち合ってこそ本当に満足することが出来るのです。

 

7月30日「エッファタ(開かれよ)」

マルコによる福音書7章31節~37節  

 イエスさまが耳が聞こえず、舌が回らない人を癒すために言われた言葉が「エッファタ」でした。これは「開かれよ」という意味のアラム語です。イエスさまは会堂長ヤイロの娘をよみがえらせる時もアラム語で「タリタ・クム(少女を起き上がりなさい)」と言われました。

 アラム語の歴史は紀元前千年までさかのぼるそうです。アッシリア帝国、バビロニア帝国、ペルシア帝国など世界を支配した国で使われた国際語だったそうです。イエスさまの時代は、ローマ帝国が支配している時代でしたけれどもユダヤ人たちはヘブライ語を使っていたようです。特に祭儀に関すること、祈りなどはヘブライ語だったようです。また、世界的にはアラム語から派生したシリア語というのが一般的に使われていたようです。

 イエスさまが何語を話しておられたかははっきりとしませんけれども、少なくとも、ここでアラム語を使っておられるのですから、アラム語は使えたでしょうし、ヘブライ語も普通に使っていただろうと思います。この「エッファタ」という言葉はわざわざ説明がなされているように誰もが聞いてすぐに分かる言葉ではなかったかもしれません。まるでおまじないの言葉のように聞こえたかもしれません。

 おまじないといいますと、イエスさまがこの人を癒される時に、耳に指を差し入れ、唾をつけて舌に触れたとあります。そして天を仰いで深く息をついたとあります。これもなんとなくおまじないのような行動にみえます。ちょっとした傷には唾をつけておけば治るなんて言ったりしますけれども、当時、病や傷を癒す時には唾をつけたり、触れたりするということが当たり前であったようです。けれども、イエスさまはこれらをいわゆる医療行為として行ったわけではないのではないかと思うのです。

 といいますのも、イエスさまはお医者さんではありませんので、この人の症状を見て、これは何という病気かを判断してそれを治そうとされたわけではないからです。耳が聞こえるようになって、しゃべれるようになって、そうして罪から解放されることを願って癒されたのです。イエスさまの時代、特に身体的な障がいは罪との関連で考えられていたわけです。ですから、治るということは罪が清められたことを意味しました。イエスさまがなさったことは、結果としては病気の癒しでありましたけれども、その実は罪の赦しであり、罪の清めであったのです。

 イエスさまが言われた「エッファタ(開け)」という言葉の意味は、ただ耳が聞こえるようになる、しゃべれるようになるために耳や口が開かれるためのおまじないではなくて、何よりも心が開かれて神さまが一緒にいてくださること、神さまこそがあなたの救いであることを悟るためでした。耳と舌に触れられたのは、この耳も舌も神さまが造られたものであり、神さまはご存知であるということを示すためでした。

 イエスさまはこのことを誰にも言わないように口止めされました。なぜなら、ただ病気が癒されたこととしか受け止められないで、耳や口が開かれたというだけで、本当は心が開かれて神さまのことが分かるようになったことを受け取らないことを知っておられたからです。だから人々はイエスさまのことを万能な医者ででもあるかのように言い広めたのでした。 

 イエスさまは、神さまを讃える言葉、心が開かれて神さまのことが分かった喜びの言葉を望んでおられます。わたくしたちは、どんなことがあっても、その一つ一つのことが神さまの御業であることを知りたいと思います。そのために心を開いていただきたいと願います。そうしていつでも神さまを讃えて信仰の道を歩んまいりたいと思います。

 

 

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